・・・わが心は独に今のこの楽しさを感ずるのみならず、実にまた来たるべき歳月におけるわが生命とわが食物とは今のこの時の感得中にあるべきなり。あえて望むはその感得の児童の際のごとからんことなり。 あの時は山羊のごとく然り山野泉流ただ自然の導くまま・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・雑で、そしてその談中に出て来る骨董好きの人や骨董屋の種の性格風ふうぼうがおのずと現われて、かつまた高貴の品物に搦む愛着や慾念の表裏が如何様に深刻で険危なものであるということを語っている点で甚だ面白いと感ずるのみならず、骨董というものについて・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・死者は、なんの感ずるところなく、知るところなく、よろこびもなく、かなしみもなく、安眠・休歇にはいってしまうのに、これを悼惜し、慟哭する妻子・眷属その他の生存者の悲哀が、幾万年かくりかえされた結果として、なんびとも、死は漠然とかなしむべし、お・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・それを聞くと、この厚いコンクリートの壁を越えて、口で云えない感情のこみ上がってくるのを感ずる。 俺だちは同志の挨拶をかわす方法を、この「せき」と「くさめ」と「屁」に持っているワケだ。だから、鼻の穴が微妙にムズ痒くなって、今くさめが出るの・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・そよとの風も部屋にない暑い日ざかりにも、その垣の前ばかりは坂に続く石段の方から通って来るかすかな風を感ずる。わたしはその前を往ったり来たりして、曾て朝顔狂と言われたほどこの花に凝った鮫島理学士のことを思い出す。手長、獅子、牡丹なぞの講釈を聞・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・これを想うと、今さらのように armer Thor の嘆が真実であることを感ずる。二 私はどうしたらよかろうか。私は一体どうして日々を送っているか。全くのその日暮し、その時勝負でやっているのだろうか。あながちそうでもないよう・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・自分はわが説が嘲りの中に退けられたように不快を感ずる。もしかなたの帆も同じくこちらへ帰るのだとすると、実際の藤さんの船はどれであろう。あちらへ出るのには今の場合は帆が利かぬわけである。けれども帆のない船であちらへ行くのは一つもない。右から左・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・、私たちに限った事でなく、殊にこの東京に住んでいる人たちは、どちらを見ても、元気が無くおちぶれた感じで、ひどく大儀そうにのろのろと動き廻っていて、私たちも持物全部を焼いてしまって、事毎に身のおちぶれを感ずるけれども、しかし、いま苦しいのは、・・・ 太宰治 「おさん」
・・・これを聞くと、始めて初夏という感を深く感ずる。雨の降頻る中に、さまさまの色をした緑を抜いて、金の玉のついた長い幟竿のさびしく高く立っているのは何となく心を惹く。 新茶のかおり、これも初夏の感じを深くさせるものの一つだ。雨が庭の若葉に降濺・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・こういう物の運動に関係した問題に触れ初めると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになって来た。ロレンツのごとき優れた老大家は疾くからこの問題に手を附けて、色々な矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折って・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫