・・・省作は到底春の人である。慚愧不安の境涯にあってもなお悠々迫らぬ趣がある。省作は泣いても春雨の曇りであって雪気の時雨ではない。 いやなことを言われて深田の家を出る時は、なんのという気で大手を振って帰ってきた省作も、家に来てみると、家の人た・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 僕は独り机に向い、最も不愉快な思いがして、そぞろ慚愧の情に咽びそうになったが、全くこの始末をつけてしまうまでは、友人をも訪わず、父の家にも行くまいと決心した。 全く放棄されたこの家はただ僕一人の奮励いかんにあるのだが、第一に胸に浮・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・わず病蓐の上に苦しみいたまえるには、いよいよ心も心ならず驚き悲しみ、弟妹等の生長せるばかりにはやや嬉しき心地すれど、いたずらに齢のみ長じてよからぬことのみし出したる我が、今もなお往時ながらの阿蒙なるに慚愧の情身を責むれば、他を見るにつけこれ・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・平気で居られぬのである。慚愧、後悔の念に文字どおり転輾する。それなら、酒を止せばいいのに、やはり、友人の顔を見ると、変にもう興奮して、おびえるような震えを全身に覚えて、酒でも呑まなければ、助からなくなるのである。やっかいなことであると思って・・・ 太宰治 「酒ぎらい」
・・・ 私が慚愧している事を信じて下さい。私は悪い男ではありません。 私はいまペンを置いて「その火絶やすな」という歌を、この学校に一つしかない小さいオルガンで歌いたいと思います。敬具―― ところどころ私が勝手に省略したけれど、以上・・・ 太宰治 「新郎」
・・・明日、なんとかして、ほんとにお金こしらえるつもり。慚愧、うちに居ること不能ゆえ、海へ散歩にいって来ます。承知とならば、玄関の電燈ともして置いて下さい。」 家人は、薬品に嫉妬していた。家人の実感に聞けば、二十年くらいまえに愛撫されたこ・・・ 太宰治 「創生記」
・・・けれども、その慚愧の念さえ次第にうすらぎ、この温泉地へ来て、一週間目ぐらいには、もう私はまったくのんきな湯治客になり切っていた。新進作家としての私へのもてなしが、わるくなかったからである。私の部屋へ来る女中の大半は、私に、「書けますでしょう・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・もはや、肉体の為では無くて、自分の慚愧、焦躁を消す為に、医者に求めるようになっていたのである。私には侘しさを怺える力が無かった。船橋に移ってからは町の医院に行き、自分の不眠と中毒症状を訴えて、その薬品を強要した。のちには、その気の弱い町医者・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・下品の極なり。慚愧に堪えず。十三、わが家に旧き道具の一つも無きは、われに売却の悪癖あるが故なり。蔵書の売却の如きは最も頻繁なり。少しでも佳き値に売りたく、そのねばる事、われながら浅まし。物慾皆無にして、諸道具への愛着の念を断ち切り涼しく・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・ことによると、自分の中にもどこかに隠れているらしい日本人固有の一番みじめな弱点を曝露されるような気がして暗闇の中に慚愧と羞恥の冷汗を流した。 十三 健康な人には病気になる心配があるが、病人には恢復するという楽・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
出典:青空文庫