・・・美しい人の憂えてる顔はかわいそうでたまらないものである。「おとよさんおとよさん」 呼ぶのは嫂お千代だ。おとよは返辞をしない。しないのではない、できないのだ。何の用で呼ぶかという事は解ってるからである。「おとよさん、おとッつさんが・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「長崎あたりに来ているロシア人は、ポケットに、もはや幾何しかの金がなくても、それを憂えずに、人生について論議している……」と、いうような話をきいたことがある。その時も、私は、感激を覚えたのです。 何となく私には、幽暗なロシア――・・・ 小川未明 「自分を鞭打つ感激より」
・・・ あくる日も、夜が明けると、花は、うすい花弁を海の方から吹いてくる風にそよがせながら憂えていました。 そのとき一羽の名も知らない小鳥が、そばの木立にきてとまって、花を見おろしながら、「おまえがいちばんしあわせ者だ。そんなに悲しむ・・・ 小川未明 「小さな赤い花」
・・・といって、女ちょうはまだ見ない子供のことを憂えたのでありました。 彼女は、さらに、そのような心配をしなくてはならぬ、自分をも不幸に考えたのでありました。「なぜ、私は、もっと日の長い、そしていろいろの花がたくさんに咲いている時分に、こ・・・ 小川未明 「冬のちょう」
・・・明けがた近くしばしまどろみしが目さめし時はかれの顔真っ蒼なりき。憂えも怒りも心の戦いもやみて、暴風一過、かれが胸には一片の秋雲凝って動かず。床にありていずこともなく凝視めし眼よりは冷ややかなる涙、両の頬をつたいて落ちぬ。『ああ恋しき治子よ』・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・いそがしげに江上を往来し、更にすすめば大別山の高峰眼下にあり、麓には水漫々の月湖ひろがり、更に北方には漢水蜿蜒と天際に流れ、東洋のヴェニス一眸の中に収り、「わが郷関何れの処ぞ是なる、煙波江上、人をして愁えしむ」と魚容は、うっとり呟いた時、竹・・・ 太宰治 「竹青」
・・・と翼を撫で、洞庭の烟波眼下にあり、はるかに望めば岳陽の甍、灼爛と落日に燃え、さらに眼を転ずれば、君山、玉鏡に可憐一点の翠黛を描いて湘君の俤をしのばしめ、黒衣の新夫婦は唖々と鳴きかわして先になり後になり憂えず惑わず懼れず心のままに飛翔して、疲・・・ 太宰治 「竹青」
・・・もしかような時にせめて山岡鉄舟がいたならば――鉄舟は忠勇無双の男、陛下が御若い時英気にまかせやたらに臣下を投げ飛ばしたり遊ばすのを憂えて、ある時イヤというほど陛下を投げつけ手剛い意見を申上げたこともあった。もし木戸松菊がいたらば――明治の初・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・かの政談家の常に患える所は、結局民権退縮・専制流行の一箇条にあり。いかにも人間社会の一大悪事にして、これを救わんとするの議論は誠に貴ぶべしといえども、未だよくこの悪事の原因を求め尽したる者にあらざるが如し。そもそも一国の政府にもせよ、また会・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・心の人にしかざるは、身体の不具なるよりも劣るものなるに、ひとりその身体の病を患て心の病を患えざるは何ぞや。婦人の仁というべきか、あるいは畜類の愛と名づくるも可なり。 人の心の同じからざる、その面の相異なるが如し。世の開るにしたがい、不善・・・ 福沢諭吉 「中津留別の書」
出典:青空文庫