・・・そういう点について全然無自覚な君を、僕もまさか憎む気にはなれないが、しかし気の毒に思わずにいられないのだよ。そして単衣を買ったとか、斬髪したとか……いったい君はどんな気持でこの大事な一日一日を過しているのか僕にはさっぱり解らない」 こう・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・私は日を浴びていても、否、日を浴びるときはことに、太陽を憎むことばかり考えていた。結局は私を生かさないであろう太陽。しかもうっとりとした生の幻影で私を瞞そうとする太陽。おお、私の太陽。私はだらしのない愛情のように太陽が癪に触った。裘のような・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・伸に数種ある、その中尤も悲むべく憎くむ可きの欠伸が二種ある、一は生命に倦みたる欠伸、一は恋愛に倦みたる欠伸、生命に倦みたる欠伸は男子の特色、恋愛に倦みたる欠伸は女子の天性、一は最も悲しむべく、一は尤も憎むべきものである」 と少し真面目な・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・彼は、既にその時から、傭主を憎むよりは、むしろ争議をやった仲間を恨んでいた。「こんなずるい手段で来ると知っとりゃ、前から用意をしとくんじゃったのに……。」健二は自分の迂闊さを口惜しがった。 同じ村から来ている二三の連中が、暫らくして・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・その無邪気さには、又、憎むこともどうすることも出来ないようなところが有った。 こういう娘のような気で何時までも居て、時には可愛くて可愛くて成らなかったおせんが、次第に大塚さんには見ても飽き飽きする様な人に変って行った。彼女と別れる前の年・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・わたしはお前さんを憎んでやろう憎んでやろうと思うのだけれど、どうも憎むことは出来ないわ。兎に角お前さんはちびのアメリイちゃんだわ。あの人との関係なんぞも、実はどうでも好いわ。それがなんのわたしの邪魔になるものか。お前さんのお蔭でチョコレエト・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・汝を愛し、汝を憎む。井伏さんの下宿生活に対する感情も、それに近いのではないかと考えられる。 いつか、私は、井伏さんと一緒に、所謂早稲田界隈に出かけたことがあったけれども、その時の下宿屋街を歩いている井伏さんの姿には、金魚鉢から池に放たれ・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・むりもないことだ、なぞと理解せず、なぜ単純に憎むことができないのか。そんな嫉妬こそ、つつましく、美しいじゃないか。重ねて四つ、という憤怒こそ、高く素直なものではないか。細君にそむかれて、その打撃のためにのみ死んでゆく姿こそ、清純の悲しみでは・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・形態的には蜂の子やまた蚕とも、それほどひどくちがって特別に先験的に憎むべく、いやしむべき素質を具備しているわけではないのである。それどころか、かれらが人間から軽侮される生活そのものが、実は人間にとって意外な祝福をもたらす所以になるのである。・・・ 寺田寅彦 「蛆の効用」
・・・凡人の私はやはり子猫でもかわいがって、そして人間は人間として尊敬し親しみ恐れはばかりあるいは憎むよりほかはないかもしれない。 寺田寅彦 「子猫」
出典:青空文庫