・・・おのずから人前を憚り、人前では殊更に二人がうとうとしく取りなす様になっている。かくまで私心が長じてきてどうして立派な口がきけよう。僕はただ一言、「はア……」 と答えたきりなんにも言わず、母の言いつけに盲従する外はなかった。「僕は・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 余り憚りなくいうと自然暗黒面を暴露するようになるが、緑雨は虚飾家といえば虚飾家だが黒斜子の紋附きを着て抱え俥を乗廻していた時代は貧乏咄をしていても気品を重んじていた。下司な所為は決して做なかった。何処の家の物でなければ喰えないなどと贅・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・殊に唖々子はこの夜この事を敢てするに至るまでの良心の苦痛と、途中人目を憚りつつ背負って来たその労力とが、合せて僅弐円にしかならないと聞いては、がっかりするのも無理はない。口に啣えた巻煙草のパイレートに火をつけることも忘れていたが、良久あって・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたれば咎も恐れず、世を憚りの関一重あなたへ越せば、生涯の落ち付はあるべしと念じたるに、引き寄せたる磁石は火打石と化して、吸われし鉄は無限の空裏を冥府へ隕つる。わが坐わる床几の底抜けて、わが乗る壇・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・すると先生は天来の滑稽を不用意に感得したように憚りなく笑い出した。そうしてこれは希臘の詩だと答えられた。英国の表現に、珍紛漢の事を、それは希臘語さというのがある。希臘語は彼地でもそれ位六ずかしい物にしてあるのだろう。高等学校生徒の余などに解・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・然かのみならず不品行にして狡猾なる奴輩は、己が獣行を勝手にせんとして流石に内君の不平を憚り、乃ち策を案じて頻りに其歓心を買い其機嫌を取らんとし、衣裳万端その望に任せて之を得せしめ、芝居見物、温泉旅行、春風秋月四時の行楽、一として意の如くなら・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・世間或は人目を憚りて態と妻を顧みず、又或は内実これを顧みても表面に疏外の風を装う者あり。たわいもなき挙動なり。夫が妻の辛苦を余処に見て安閑たるこそ人倫の罪にして恥ず可きのみならず、其表面を装うが如きは勇気なき痴漢と言う可し。一 女子少し・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・あなたのお住いへ伺うことは憚りますのですから。わたくしはただいまから頼んでおいて Rue Romaine 十八番地に落ち着きますことにいたしましょう。 わたくしはこんなに手短に乾燥無味に書きます。これは少し気分が悪いからでございます。電・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・中国の建築・食物・色彩感・日常的商取引の道徳習慣など片々とした知識を材料として考えただけでも、中国の性格が自然に対しても積極的であり、人間の意志を表明すること憚りない傾向を示していることが興味ふかい。 在来の所謂支那通の人の書くものを読・・・ 宮本百合子 「中国文化をちゃんと理解したい」
・・・ 美しい縹緻よしのドラは、憚りなく「ああ本当にうちは退屈だわ。早く誰それさんのところへ行きたい」と云います。男の友人と、気位のない交際をしているのを知って、ロザリーが注意を加えても何もなりません。だらしのないのをやめさせようとしても、ド・・・ 宮本百合子 「「母の膝の上に」(紹介並短評)」
出典:青空文庫