・・・ ついでながら、切り立ての鋏穴の縁辺は截然として角立っているが、揉んで拡がった穴の周囲は毛端立ってぼやけあるいは捲くれて、多少の手垢や脂汗に汚れている。それでも多くの場合に原形の跡形だけは止めている。それでもしこのように揉んだ痕跡があっ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・粗末な白木の札であるから新入りでない人の札はみんな手垢で薄黒く汚れている。ところが、人によっては姓名の第一番の文字のところだけに真黒に指の跡を印している人があるかと思うと、また二番目の字を汚している人もある。そうかと思うとまた下の二字を一様・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ 白暖簾の懸った座敷の入口に腰を掛けて、さっきから手垢のついた薄っぺらな本を見ていた松さんが急に大きな声を出して面白い事がかいてあらあ、よっぽど面白いと一人で笑い出す。「何だい小説か、食道楽じゃねえか」と源さんが聞くと松さんはそうよ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・私はこの偉い人の『科学の価値』という本の手ずれた表紙を常に親愛をもって眺めていたが、それはその手垢に対する主観的親愛に止っていたのだからこれを瞥見して苦笑して居ります。[自注1]スーさん――中野鈴子。 二月五日 〔市・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・僕の乗った舟を漕いでいる四十恰好の船頭は、手垢によごれた根附の牙彫のような顔に、極めて真面目な表情を見せて、器械的に手足を動かしてろを操っている。飾磨屋の事だから、定めて祝儀もはずむのだろうに、嬉しそうには見えない。「勝手な馬鹿をするが好い・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫