・・・誰か旧魚河岸の方の側で手鏡を日光に曝らしてそれで反射された光束を対岸のビルディングに向けて一人で嬉しがっているものと思われた。こういういたずらがいかに面白いものであるかはそれを経験したもののよく知るところである。小学や中学時代に校舎の二階の・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・ あまり鏡というものを見る機会のない私は、ある朝偶然縁側の日向に誰かがほうり出してあった手鏡を弄んでいるうちに、私の額の辺に銀色に光る数本の白髪を発見した。十年ほど前にある人から私の頭の頂上に毛の薄くなった事を注意されて、いまに禿げるだ・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・いざりよって丸い手鏡をとって自分のかおをのぞいた。ふっくらした丸みをもった頬と特別な美くしさと輝きをもった眼、まっかな唇に通った鼻、顔全体にみなぎって居る何とも云えないうすら寒い気持――そう云うものを女は女自身に感じて、「私は若い――そ・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・この鏡と手鏡だけが、私の朝夕の顔、泣いた顔、うれしそうにしている時の顔を映すものなのだが、考えてみれば姿見だの鏡台だのというものがその部屋に目立たない女の暮しの数も、この頃は見えないところで随分殖えて来ているのではないかしら。見えないところ・・・ 宮本百合子 「この初冬」
・・・パール・バックの作品を近代の堂々とした三面鏡にたとえるならば、冰心女士のこの小説は、紫檀の枠にはめこまれた一個の手鏡というにふさわしい。けれども、このつつましい、繊手なおよくそれを支える一つの手鏡が何と興味つきない角度から、言葉すくなく、善・・・ 宮本百合子 「春桃」
出典:青空文庫