・・・何となく、心ゆかしに持っていた折鞄を、縁側ずれに炉の方へ押入れた。それから、卵塔の草を分けたのであった。――一つは、鞄を提げて墓詣をするのは、事務を扱うようで気がさしたからであった。 今もある。……木魚の下に、そのままの涼しい夏草と、ち・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・障子の桟にはべたッと埃がへばりつき、天井には蜘蛛の巣がいくつも、押入れには汚れ物がいっぱいあった。……お君が嫁いだ後、金助は手伝い婆さんを雇って家の中を任せていたのだが、選りによって婆さんは腰が曲り、耳も遠かった。「このたびはえらい御不・・・ 織田作之助 「雨」
・・・酒屋の払いもきちんきちんと現金で渡し、銘酒の本鋪から、看板を寄贈してやろうというくらいになり、蝶子の三味線も空しく押入れにしまったままだった。こんどは半分以上自分の金を出したというせいばかりでもなかったろうが、柳吉の身の入れ方は申分なかった・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・と、弟はおとなしく起って、次ぎの室の押入れからFの行李を出してきた。 学校へはきゅうに郷里に不幸ができて帰ることになったからとFに言わせて、学校道具を持ってこさせた。昼のご飯を運んできた茶店の娘も残っていて手伝ったが、私の腹の底は視透か・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ 私は起きて、押入れの中から、私の書いたものの載っている古雑誌を引張りだして、私の分を切抜いて、妻が残して行った針と木綿糸とで、一つ一つ綴り始めた。皆な集めても百頁にも足りないのだ。これが私の、この六七年間の哀れな所得なのだ。その間に私・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・布団を入れる押入れや、棚や、箪笥の抽斗を探してみた。けれども無い。納屋の蓆の下に置いて忘れているような気もした。納屋へ行って探して見た。だが探しても見あたらない。彼女は頭の組織が引っくりかえったようにぐら/\した。すべての物がばら/\に離れ・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・何時もズロースなんかはいたことがないのに、押入れの奥まったところから、それも二枚取り出してきて、キチンと重ねてはいた。それから財布のなかを調べて懐に入れ、チリ紙とタオルを枕もとに置いた。そういう動作をしているお前の妹の顔は、お前が笑うような・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・私は何かこう目に見えないものが群がり起こって来るような心持ちで、本棚がわりに自分の蔵書のしまってある四畳半の押入れをもあけて見た。いよいよこの家を去ろうと心をきめてからは、押入れの中なぞも、まるで物置きのようになっていた。世界を家とする巡礼・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・蜂はコップの中へ押し入れられた。それを見た生徒等は意味もなく笑った。「死んだ、死んだ」と言うものもあれば、「弱い奴」と言うものも有った。蜂は真理を証するかのように、コップの中でグルグル廻って、身を悶えて、死んだ。「最早マイりましたかネ」・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・仕事がないと言って救いを求めるもの、私たちの家へ来るまでに二日も食わなかったというもの、そういう人たちを見るたびに私は自分の腰に巻きつけた帯の間から蝦蟇口を取り出して金を分けることもあり、自分の部屋の押入れから古本を取り出して来て持たせてや・・・ 島崎藤村 「分配」
出典:青空文庫