・・・と藤さんは微笑みながら、立って押入れを探す。 藤さんという名はこうして知ったのである。「そしてあなたが何でお泣きになったんです?」「いいえ、嘘ですの、そんなことは」「燐寸を探していらっしゃるんですか。私が持っています」「・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・そのうちに東京は大空襲の連続という事になりまして、何が何やら、大谷さんが戦闘帽などかぶって舞い込んで来て、勝手に押入れの中からブランデイの瓶なんか持ち出して、ぐいぐい立ったまま飲んで風のように立ち去ったりなんかして、お勘定も何もあったもので・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ 数日後、ウィスキイは私の部屋の押入れに運び込まれ、私は女房に向って、「このウィスキイにはね、二十六歳の処女のいのちが溶け込んでいるんだよ。これを飲むと、僕の小説にもめっきり艶っぽさが出て来るという事になるかも知れない。」 と言・・・ 太宰治 「親という二字」
・・・犬か猫に与えるように、一つまみのパン屑を私の口に押し入れて、それがあいつのせめてもの腹いせだったのか。ははん。ばかな奴だ。旦那さま、あいつは私に、おまえの為すことを速かに為せと言いました。私はすぐに料亭から走り出て、夕闇の道をひた走りに走り・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・元気を得て、さらに手を入れ、消し去り書き加え、五回ほど清書し直して、それから大事に押入れの紙袋の中にしまって置いた。今年の正月ごろ友人の檀一雄がそれを読み、これは、君、傑作だ、どこかの雑誌社へ持ち込め、僕は川端康成氏のところへたのみに行って・・・ 太宰治 「川端康成へ」
・・・見せましょうか、押入れの中を。」 立って押入れを、さっとあけて見せる。 田島は眼をみはる。 清潔、整然、金色の光を放ち、ふくいくたる香気が発するくらい。タンス、鏡台、トランク、下駄箱の上には、可憐に小さい靴が三足、つまりその押入・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・少しまごついて、あちこち歩きまわって、押入れをあけたりしめたりして、それから、どかと次兄の傍にあぐらをかいた。「困った、こんどは、困った。」そう言って顔を伏せ、眼鏡を額に押し上げ、片手で両眼をおさえた。 ふと気がつくと、いつの間にか・・・ 太宰治 「故郷」
あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・宿へかえってからも、無意味に、書きかけの原稿用紙を、ばりばり破って、そのうちに、この災難に甘えたい卑劣な根性も、頭をもたげて来て、こんなに不愉快で、仕事なんてできるものか、など申しわけみたいに呟いて、押入れから甲州産の白葡萄酒の一升瓶をとり・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・ 私は押入れから、半分ほどはいっているウイスキイの角瓶を持ち出し、「ウイスキイだけど、かまわないか」「いいとも。かかがいないか。お酌をさせろよ」 永い間、東京に住み、いろんな客を迎えたけれども、私に対してこんな事を言った客は・・・ 太宰治 「親友交歓」
出典:青空文庫