・・・千駄木時代の絵はがきのほかにはこれが唯一の形見になったのであったが、先生死後に絵の掛け物を一幅御遺族から頂戴した。 謡曲を宝生新氏に教わっていた。いつか謡って聞かされたときに、先生の謡は巻き舌だと言ったら、ひどいことを言うやつだと言って・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・床の間に山水花鳥の掛け物をかけるのもまたそのバリアチオンと考えられなくもない。西洋でも花瓶に花卉を盛りバルコンにゼラニウムを並べ食堂に常緑樹を置くが、しかし、それは主として色のマッスとしてであり、あるいは天然の香水びんとしてであるように見え・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・公衆のために設けられたる料理屋の座敷に上っては、掛物と称する絵画と置物と称する彫刻品を置いた床の間に、泥だらけの外套を投げ出し、掃き清めたる小庭に巻煙草の吸殻を捨て、畳の上に焼け焦しをなし、火鉢の灰に啖を吐くなぞ、一挙一動いささかも居室、家・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・たまには夜店で掛物をひやかしたり、盆栽の一鉢くらい眺める風流心はあるかも知れない。しかしながら探偵が探偵として職務にかかったら、ただ事実をあげると云うよりほかに彼らの眼中には何もない。真を発揮すると云うともったいない言葉でありますが、まず彼・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・その煤けた天照大神と書いた掛物の床の間の前には小さなランプがついて二枚の木綿の座布団がさびしく敷いてあった。向うはすぐ台所の板の間で炉が切ってあって青い煙があがりその間にはわずかに低い二枚折の屏風が立っていた。 二人はそこにあったもみく・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・今は花房の家で、その箱に掛物が入れてある。 火事にも逢わずに、だいぶ久しく立っている家と見えて、頗ぶる古びが附いていた。柱なんぞは黒檀のように光っていた。硝子の器を載せた春慶塗の卓や、白いシイツを掩うた診察用の寝台が、この柱と異様なコン・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・お袋は早く兄きが内へ帰られるようにというので、小さい不動様の掛物を柱に掛けて、その前へ線香を立てて、朝から晩まで拝んでいた。」「そこへ兄きがひょっこり帰って来た。お袋が馬鹿に喜んで、こうして毎日拝んだ甲斐があると云って不動様の掛物の方へ・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・庭の方を見て、海が見えないのが遺憾だと云ったり、掛物を見て書画の話をしたりする。石田は床の間に、軍人に賜わった勅語を細字に書かせたのを懸けている。これを将校行李に入れてどこへでも持って行くばかりで、外に掛物というものは持っていないのである。・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・壁のところどころには、偶然ここで落ち合ったというような掛け物が幾つもかけてある。梅に鶯やら、浦島が子やら、鷹やら、どれもどれも小さい丈の短い幅なので、天井の高い壁にかけられたのが、尻を端折ったように見える。食卓のこしらえてある室の入口を挾ん・・・ 森鴎外 「普請中」
・・・座敷に通ってからふと床の間を見ると、床柱にかかった鼻まがりの天狗の面が掛け物の上に横面黒像を映している。珍しい面だと思って床柱を見たが、そこにはそんなに大きな面は掛かっていない。では小さい面が光のぐあいで大きく映ったのかしらと床柱の側まで行・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫