・・・二人は見る見る接近した。十歩、五歩、三歩、――お嬢さんは今目の前に立った。保吉は頭を擡げたまま、まともにお嬢さんの顔を眺めた。お嬢さんもじっと彼の顔へ落着いた目を注いでいる。二人は顔を見合せたなり、何ごともなしに行き違おうとした。 ちょ・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・いや、私は何度となく、すでに細君の従弟だと云う以上、芝居で挨拶を交すくらいな事は、さらに不思議でも何でもないじゃないかと、こう理性に訴えて、出来るだけその男に接近しようとさえ努力して見ました。しかし私がその努力にやっと成功しそうになると、彼・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ ふたりの子どもを間にして予とお光さんはどうしても他人とはみえぬまで接近した。さすがにお光さんは平気でいられない風情である。予はことさらに空を眺めて困った雨ですなアなど平気をよそおう。「あなたはほんとにおしあわせです」 お光さん・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・と、僕の言葉は、まだ金の問題には接近していなかっただけに、うわべだけは、とにかく、綺麗なものであった。「しかし、この子が役者になる時は、先生から入費は一切出して下さるようになるんでしょう、ね」と、お袋はぬかりなく念を押した。「そりゃ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・二葉亭に接近してこの鋭どい万鈞の重さのある鉄槌に思想や信仰を粉砕されて、茫乎として行く処を喪ったものは決して一人や二人でなかったろう。 それがしの小説家が俄に作才を鈍らして一時筆を絶ってしまったのも二葉亭の鉄槌を受けたためであった。それ・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・彼は鮮人と云えば、皆同じようなプロフィルと表情を持っているとしか見えない位い、滅多に接近したことがなかった。彼等の顔には等しく、忍従した上に忍従して屈辱を受けつゞけた人間の沈鬱さが表現されているばかりだ。老人には、泣き出しそうな、哀しげな表・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 屋根の上に、敵兵の接近に対する見張り台があった。その屋根にあがった、一等兵の浜田も、何か悪戯がしてみたい衝動にかられていた。昼すぎだった。「おい、うめえ野郎が、あしこの沼のところでノコ/\やって居るぞ。」 と、彼は、下で、ぶら・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・彼は、ほんとうの幸福とは、外から得られぬものであって、おのれが英雄になるか、受難者になるか、その心構えこそほんとうの幸福に接近する鍵である、という意味のことを言い張ったのであった。彼のふるさとの先輩葛西善蔵の暗示的な述懐をはじめに書き、それ・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・四時過ぎに、敵味方の歩兵はともに接近した。小銃の音が豆を煎るように聞こえる。時々シュッシュッと耳のそばを掠めていく。列の中であっと言ったものがある。はッと思って見ると、血がだらだらと暑い夕日に彩られて、その兵士はガックリ前にった。胸に弾丸が・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・画の主題でも描法でも両方から互いに接近し模倣し入乱れて来ている。それだのにそうかと云って、洋画家で絵絹へ油絵具を塗る試みをあえてする人、日本画家でカンバスへ日本絵具を盛り上げる実験をする人がないのはむしろ不思議なくらいである。 洋画を通・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
出典:青空文庫