・・・そして今にも襟髪を掴むか、今にも崖から突き落とすか、そんな恐怖で息も止まりそうになっているんです。しかし僕はやっぱり窓から眼を離さない。そりゃそんなときはもうどうなってもいいというような気持ですね。また一方ではそれがたいていは僕の気のせいだ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 憲兵が取調べる際にも、やはり、その弱点を掴むことに伍長と上等兵の眼は向けられた。彼等は、犯人らしい、多くの弱点を持っている者を挙げれば、それで役目がつとまるのだ。 事務室から出ることを許されて、兵舎へ行くと、同年兵達は、口々にぶつ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・君は、ボオドレエルを掴むつもりで、ボ氏の作品中の人物を、両眼充血させて追いかけていた様だ。我は花にして花作り、我は傷にして刃、打つ掌にして打たるる頬、四肢にして拷問車、死刑囚にして死刑執行人。それでは、かなわぬ。むべなるかな、君を、作中人物・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・急に、歯ぎしりするほどジャピイを可愛くなっちゃって、シッポを強く掴むと、ジャピイは私の手を柔かく噛んだ。涙が出そうな気持になって、頭を打ってやる。ジャピイは、平気で、井戸端の水を音をたてて呑む。 お部屋へはいると、ぼっと電燈が、ともって・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・男は少女にあくがれるのが病であるほどであるから、むろん、このくらいの秘訣は人に教わるまでもなく、自然にその呼吸を自覚していて、いつでもその便利な機会を攫むことを過らない。 年上の方の娘の眼の表情がいかにも美しい。星――天上の星もこれに比・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・渾沌とした問題を処理する第一着手は先ず大きいところに眼を着けて要点を攫むにあるので、いわゆる第一次の近似である。しかし学者が第一次の近似を求めて真理の曙光を認めた時に、世人はただちに枝葉の問題を並べ立てて抗議を申込む。例えば天気予報などもあ・・・ 寺田寅彦 「物理学の応用について」
・・・いきなり、娘の服の襟を掴むとズルズル引き摺って、畑のくろのところへ投り出してしまった。 その夕方、善ニョムさんは、息子達夫婦よりも、さきに帰って何喰わぬ顔して寝ていた。 夜になって、息子が山荘庵の地主から使が来て、呼び出されて行・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・幽霊だ、祟だ、因縁だなどと雲を攫むような事を考えるのは一番嫌である。が津田君の頭脳には少々恐れ入っている。その恐れ入ってる先生が真面目に幽霊談をするとなると、余もこの問題に対する態度を義理にも改めたくなる。実を云うと幽霊と雲助は維新以来永久・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・籠はと聞き返すと、籠ですか、籠はその何ですよ、なにどこにかあるでしょう、とまるで雲を攫むような寛大な事を云う。でも君あてがなくっちゃいけなかろうと、あたかもいけないような顔をして見せたら、三重吉は頬ぺたへ手をあてて、何でも駒込に籠の名人があ・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・私のようにどこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か掴みたくっても薬缶頭を掴むようにつるつるして焦燥れったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
出典:青空文庫