・・・妻はそう答えた後、箪笥の上の鏡を覗き、ちょいと襟もとを掻き合せた。自分は彼等を見送らずに、もう一度二階へ引き返した。 自分は新たに来た客とジョルジュ・サンドの話などをしていた。その時庭木の若葉の間に二つの車の幌が見えた。幌は垣の上にゆら・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・翁は経机の向うに白の水干の袖を掻き合せて、仔細らしく坐っている。朦朧とはしながらも、烏帽子の紐を長くむすび下げた物ごしは満更狐狸の変化とも思われない。殊に黄色い紙を張った扇を持っているのが、灯の暗いにも関らず気高くはっきりと眺められた。・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・ 予はわが襟を掻き合せぬ。さきより踞いたる頭次第に垂れて、芝生に片手つかんずまで、打沈みたりし女の、この時ようよう顔をばあげ、いま更にまた瞳を定めて、他のこと思いいる、わが顔、瞻るよと覚えしが、しめやかなるものいいしたり。「可うござ・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・などと言ってほめてやりましたが、女中は、いかにも私を軽蔑し果てたというように、フンと言って、襟を掻き合せ、澄まして部屋から出て行きました。私は残ったお酒をぐいぐい呑み、ひとりでごはんをよそって食べましたが、実にばからしい気持でした。藤十郎が・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・く、私をこのまま連れていって逃げて下さい、私をめちゃめちゃにして下さいと私ひとりの思いだけが、その夜ばかり、唐突に燃え上って、私は、暗い小路小路を、犬のように黙って走って、ときどき躓いてはよろけ、前を掻き合せてはまた無言で走りつづけ涙が湧い・・・ 太宰治 「誰も知らぬ」
・・・赤い襟巻を掻き合せて、顎をうずめた。 レヴュウを見て、それから、外を歩いて、三人、とりやへはいった。静かな座敷で、卓をかこみ、お酒をのんだ。三人、血をわけたきょうだいのようであった。「しばらく旅行に出るからね、」乙彦は、青年を相手に・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・ 狸がきもののえりを掻き合せて云いました。「そうじゃ。みんな往生じゃ。山猫大明神さまのおぼしめしどおりじゃ。な。なまねこ。なまねこ。」 兎も一緒に念猫をとなえはじめました。「なまねこ、なまねこ、なまねこ、なまねこ。」 狸・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
・・・ 女は直ぐに着物の前を掻き合せて、起き上がろうとした。「ちょっとそうして待っていて下さい」 と、花房が止めた。 花房に黙って顔を見られて、佐藤は機嫌を伺うように、小声で云った。「なんでございましょう」「腫瘍は腫瘍だが・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・お松は寝巻の前を掻き合せながら一足進んで、お花の方へ向いた。「わたしこわいから我慢しようかと思っていたんだけれど、お松さんと一しょなら、矢っ張行った方が好いわ。」こう云いながら、お花は半身起き上がって、ぐずぐずしている。「早くおしよ・・・ 森鴎外 「心中」
出典:青空文庫