・・・文芸を三、四年間放擲してしまうのは、いささかの狐疑も要せぬ。 肉体を安んじて精神をくるしめるのがよいか。肉体をくるしめて精神を安んずるのがよいか。こう考えて来て自分は愉快でたまらなくなった。われ知らず問題は解決したと独語した。 ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・現在自分の口から言出して置きながら、人に看透かされたと思うと直ぐコロリと一転下して、一端口外した自家意中の計画をさえも容易に放擲して少しも惜まなかったのはちょっと類の少ない負け嫌いであった。こういう旋毛曲りの「アマノジャク」は始終であって、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ ことにこの一、二年はこの詩集すら、わずかに二、三十巻しかないわが蔵書中にあってもはなはだしく冷遇せられ、架上最も塵深き一隅に放擲せられていた。否、一月に一度ぐらいは引き出されて瞥見された事もあったろう、しかし要するに瞥見たるに過ぎない・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・と真蔵は放擲って置いてもお源が今後容易に盗み得ぬことを知っているけれど、その理由を打明けないと決心てるから、仕様事なしにこう言った。「充満で御座います」とお徳は一言で拒絶した。「そうか」真蔵は黙って了う。「それじゃこうしたらどう・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・彼はいかなる書物でもけっして机の上や、座敷の真中に放擲するようなことなどはしない。こういうと桂は書籍ばかりを大切にするようなれどかならずしもそうでない。彼は身の周囲のものすべてを大事にする。 見ると机もかなりりっぱ。書籍箱もさまで黒くな・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・切詰めた予算だけしか有しておらぬことであるから、当人は人一倍困悶したが、どうも病気には勝てぬことであるから、暫く学事を抛擲して心身の保養に力めるが宜いとの勧告に従って、そこで山水清閑の地に活気の充ちた天地の気を吸うべく東京の塵埃を背後にした・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・あれなぞをこう比べて見ると、北村君の行き方は、一度ある題目を捉えると容易にそれを放擲して了うという質の人では無い、何度も何度も心の中で繰り返されて、それが筆に上る度に、段々作物の味が深くなってゆくという感じがする。『富嶽の詩神を懐ふ』という・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・彼女と別れる前の年あたりには、大塚さんは何でも彼女の思う通りに任せて、万事家のことは放擲して了った。小言一つ言わなかった……唯、彼女を避けようとした……そして自分は会社のことにばかり出歩いた……さもなければ、会社の用事に仮托けて、旅にばかり・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・君が時代に素直で、勉強を放擲しようとする気持もわかるけれど、秩序の必然性を信じて、静かに勉強を続けて行くのも亦、この際、勇気のある態度じゃないのかね。発散級数の和でも、楕円函数でも、大いに研究するんだね。」私は、やや得意であった。言い終って・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ 笠井さんは、それまでの不断の地味な努力を、泣きべそかいて放擲し、もの狂おしく家を飛び出し、いのちを賭して旅に出た。もう、いやだ。忍ぶことにも限度が在る。とても、この上、忍べなかった。笠井さんは、だめな男である。「やあ、八が岳だ。やつが・・・ 太宰治 「八十八夜」
出典:青空文庫