・・・ユンケル氏はその後一高の方へ転任せられ、もう大分前に故人となられた。エスさんも、その後何処に行かれたか。その頃私より少し年上であったと思うが、今も何処かに健かにしておられるか知ら。 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
・・・ 翌朝、下六番町の邸に告別式に列し、焼香も終って、じっと白花につつまれた故人の写真を見たら、思わず涙にむせび、声を押えることが出来なかった。彼の温容が心を打ったこと、並、人生の切なさ、恐ろしさ、平凡の底に湛えた切迫さ、真剣さを、一時に感・・・ 宮本百合子 「有島武郎の死によせて」
・・・ 命を奪われるほど悪人でなかった故人。むしろ弱点も人間的といえた故人。国鉄五十万人と運命をともにした故人。世間に暗い衝撃を与えることは、故人の望むところでなかったろう。自殺と直感した、といわれたときこそその人の妻らしい悲しみのありかたと・・・ 宮本百合子 「権力の悲劇」
・・・芥川、池谷、千葉賞のように、故人となった文学者の記念のための文学賞ばかりか、農民文学には有馬賞というのがあり、中河与一氏の尽力によって成立してその第一回受賞者は中河氏であった、大倉出資の透谷賞というのもあるようになった。 今度の事変が、・・・ 宮本百合子 「今日の文学と文学賞」
・・・ところが、書類の上でその人は故人である。まず生き還ってから、戸籍の上に存在するという手続きを経てから選挙手続きも改めてとらなければならない。これらの人々の一票は投票箱に落ちる時人生のどんな響きを立てることだろう。ドストイェフスキイは、ロシア・・・ 宮本百合子 「青年の生きる道」
・・・ましてや三右衛門が遺族に取っては、その敵討が故人の遺言になっている。そこで親族打ち寄って、度々評議を凝らした末、翌天保五年甲午の歳の正月中旬に、表向敵討の願をした。 評議の席で一番熱心に復讐がしたいと言い続けて、成功を急いで気を苛ったの・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・或る時故人松波資之さんにこのことを話しました。そうすると松波さんが、源氏物語は悪文だといわれました。随分皮肉なこともいうお爺さんでございましたから、この詞を余り正直に聞いて、源氏物語の文章を謗られたのだと解すべきではございますまい。しかし源・・・ 森鴎外 「『新訳源氏物語』初版の序」
・・・そう云う心持になっていて、今飾磨屋と云う男を見ているうちに、僕はなんだか他郷で故人に逢うような心持がして来た。傍観者が傍観者を認めたような心持がしてきた。 僕は飾磨屋の前生涯を知らない。あの男が少壮にして鉅万の富を譲り受けた時、どう云う・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・それを刺そうという気は起らないが、嘲りの眼を以て見れば弱点をピンで刺し留めるのが唯一の興味である。それ故人に対する時自分の心の面には常に弱所を突こうとする欲望があった。またすべての愛は自愛に帰納せられた。人を愛する心持ちがどんなに強く自分の・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
『青丘雑記』は安倍能成氏が最近六年間に書いた随筆の集である。朝鮮、満州、シナの風物記と、数人の故人の追憶記及び友人への消息とから成っている。今これをまとめて読んでみると、まず第一に著者の文章の円熟に打たれる。文章の極致は、透明無色なガラ・・・ 和辻哲郎 「『青丘雑記』を読む」
出典:青空文庫