・・・ 会話の進行は、また内蔵助にとって、面白くない方向へ進むらしい。そこで、彼は、わざと重々しい調子で、卑下の辞を述べながら、巧にその方向を転換しようとした。「手前たちの忠義をお褒め下さるのは難有いが、手前一人の量見では、お恥しい方が先・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・片側町ではあるけれども、とにかく家並があるだけに、強て方向を変えさせられた風の脚が意趣に砂を捲き上げた。砂は蹄鉄屋の前の火の光に照りかえされて濛々と渦巻く姿を見せた。仕事場の鞴の囲りには三人の男が働いていた。鉄砧にあたる鉄槌の音が高く響くと・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年が・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・い光る雨に、花吹雪を浮かせたように、羽が透き、身が染って、数限りもない赤蜻蛉の、大流れを漲らして飛ぶのが、行違ったり、卍に舞乱れたりするんじゃあない、上へ斜、下へ斜、右へ斜、左へ斜といった形で、おなじ方向を真北へさして、見当は浅草、千住、そ・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・で其真相を知り居らぬが、種々な方面より知り得たる処では、吾国の茶の湯と其精神酷だ相似たるを発見するのである、それはさもあるべき事であろう、何ぜなれば同じ食事のことであるから其興味的研究の進歩が、遂に或方向に類似の成績を見るに至るは当然の理で・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・ 少女は、暗い外の方を指して、町へ出る方向をおじいさんに教えました。ところどころに点いている街燈の光が見えるだけで、あとは風の音が聞こえるばかりでした。 ちょうど、その時分、B医師は、暗い路を考えながら下を向いて歩いてきました。彼は・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・その方向から荷馬車が来た。馬がいなないた。彼はもうその男のことを忘れ、びっくりしたような苦痛の表情を馬の顔に見ていた。 織田作之助 「馬地獄」
・・・もしそうとすればK君のいわゆる一尺ないし二尺の影は北側といってもやや東に偏した方向に落ちるわけで、K君はその影を追いながら海岸線を斜に海へ歩み入ったことになります。 K君は病と共に精神が鋭く尖り、その夜は影がほんとうに「見えるもの」にな・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・ そこでその夜、豊吉は片山の道場へ明日の準備のしのこりをかたづけにいって、帰路、突然方向を変えて大川の辺へ出たのであった。「髯」の墓に豊吉は腰をかけて月を仰いだ。「髯」は今の豊吉を知らない、豊吉は昔の「髯」の予言を知らない。 豊吉は・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・そのものをきめようとする倫理上の形式主義には抜くべからざる根拠があるのである。その方向は大乗の宗教に通ずる。しかし意欲そのものに実質的に道徳的価値を付して、より高き意欲に権利を与えんとする要請にもやみがたいものがある。人情にはむしろこの方が・・・ 倉田百三 「学生と教養」
出典:青空文庫