・・・そこでしばらく自由の身になった少年はよく旅行をした。ある時は単身でアペニンを越えて漂浪したりした。間もなく彼はチューリヒのポリテキニクムへ入学して数学と物理学を修める目的でスイスへやって来た。しかし国語や記載科学の素養が足りなかったので、し・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・今日が新婚旅行のようなもんだっせ」雪江はいそいそしながら、帯をしめていた。顔にはほんのり白粉がはかれてあった。「ほう、綺麗になったね」私はからかった。「そんな着物はいっこう似あわん」桂三郎はちょっと顔を紅くしながら呟いた。「いく・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・Henri Bordeaux という人の或る旅行記の序文に、手荷物を停車場に預けて置いたまま、汽車の汽笛の聞える附近の宿屋に寝泊りして、毎日の食事さえも停車場内の料理屋で準え、何時にても直様出発し得られるような境遇に身を置きながら、一向に巴・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・は半分荷物船だから船足がおそいのに、なぜそれをえらんだのかと私が聞いたら、先生はいくら長く海の中に浮いていても苦にはならない、それよりも日本からベルリンまで十五日で行けるとか十四日で着けるとかいって、旅行が一日でも早くできるのを、非常の便利・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生の告別」
・・・ 久しい以前から、私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかりを続けていた。その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔し得る唯一の瞬間、即ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。と言って・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・自分が七赤だか八白だかまるっきり知らなければ文句はないが、自分は二黒だと知っていれば、旅行や、金談はいけない、などとあると、構わない、やっつけはするが、どこか心の隅のほうにそいつが、しつっこくくっついている。「あそこの家の屋根からは、毎・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・然かのみならず不品行にして狡猾なる奴輩は、己が獣行を勝手にせんとして流石に内君の不平を憚り、乃ち策を案じて頻りに其歓心を買い其機嫌を取らんとし、衣裳万端その望に任せて之を得せしめ、芝居見物、温泉旅行、春風秋月四時の行楽、一として意の如くなら・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・夫は取引の旅行中にその女どもに逢っていますので、イソダンでは誰も知らずにいるのでございます。 そこでわたくしはどういたしたらよろしいのでございましょう。それについて誰に相談いたしましょう。決してこの土地の人には打明けたくございません。・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・○桑の実を食いし事 信州の旅行は蚕時であったので道々の桑畑はいずこも茂っていた。木曾へ這入ると山と川との間の狭い地面が皆桑畑である。その桑畑の囲いの処には幾年も切らずにいる大きな桑があってそれには真黒な実がおびただしくなっておる。見逃が・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・一千九百二十五年五月六日今日学校で武田先生から三年生の修学旅行のはなしがあった。今月の十八日の夜十時で発って二十三日まで札幌から室蘭をまわって来るのだそうだ。先生は手に取るように向うの景色だの見て来ることだの話した。・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫