・・・――彼女はそう思いながら、それでも春着の膝の上へ、やはり涙を落している彼女自身を見出したのだった。 が、何分か過ぎ去った後、お蓮がふと気がついて見ると、薄暗い北向きの玄関には、いつのまに相手は帰ったのか、誰も人影が見えなかった。・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・昨日おいでになって、東京へいっている息子の春着を造ってやるのだと、反物を買ってお帰りになりました。」と、おかみさんは、告げました。 真吉は、これをきくと、安心して、いままで、張りつめた気持ちがなくなりました。そして、お母さんの、真心から・・・ 小川未明 「真吉とお母さん」
・・・そして、くまのいがいい値で売れたら、子供にも春着が買ってやれるし、暮らしもよくなるだろうし、こんないいことはないのだが。」と、思っていました。そこへ、夫がから手で、帰ってきましたから、「獲物が見つかりませんでしたか。」と、ききました。猟・・・ 小川未明 「猟師と薬屋の話」
・・・ 帰らないと言うから春着を送りました。今年は胴着を作って入れておいたが、胴着は着物と襦袢の間に着るものです。じかに着てはいけません。―― 津枝というのは母の先生の子息で今は大学を出て医者をしていた。が、かつて堯にはその人に兄のような・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
少し肺炎の徴候が見えるようだからよく御注意なさい、いずれ今夜もう一遍見に来ますからと云い置いて医者は帰ってしまった。 妻は枕元の火鉢の傍で縫いかけの子供の春着を膝へのせたまま、向うの唐紙の更紗模様をボンヤリ見詰めて何か・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
出典:青空文庫