・・・夫の外交官も新時代の法学士ですから、新派悲劇じみたわからずやじゃありません。学生時代にはベエスボールの選手だった、その上道楽に小説くらいは見る、色の浅黒い好男子なのです。新婚の二人は幸福に山の手の邸宅に暮している。一しょに音楽会へ出かけるこ・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・今日になってみると、開墾しうべきところはたいてい開墾されて、立派に生産に役立つ土地になっていますが、開墾当初のことを考えると、一時代時代が隔たっているような感じがします。ここから見渡すことのできる一面の土地は、丈け高い熊笹と雑草の生い茂った・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・小説はみんな時代語になった。小学校の教科書と詩も半分はなって来た。新聞にだって三分の一は時代語で書いてある。先を越してローマ字を使う人さえある。A それだけ混乱していたら沢山じゃないか。B うむ。そうすっとまだまだか。A まだま・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・――小母さんは寺子屋時代から、小僧の父親とは手習傍輩で、そう毎々でもないが、時々は往来をする。何ぞの用で、小僧も使いに遣られて、煎餅も貰えば、小母さんの易をトる七星を刺繍した黒い幕を張った部屋も知っている、その往戻りから、フトこのかくれた小・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・彼の徳川時代の初期に於て、戦乱漸く跡を絶ち、武人一斉に太平に酔えるの時に当り、彼等が割合に内部の腐敗を伝えなかったのは、思うに将軍家を始めとして大名小名は勿論苟も相当の身分あるもの挙げて、茶事に遊ぶの風を奨励されたのが、大なる原因をなし・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・もう一遍君等と一緒に寄宿舎の飯を喰た時代に返りたい」と、友人は寝巻に着かえながらしみじみ語った。下の座敷から年上の子の泣き声が聞えた。つづいて年下の子が泣き出した。細君は急いで下りて行った。「あれやさかい厭になってしまう。親子四人の為め・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・牛島の弘福寺といえば鉄牛禅師の開基であって、白金の瑞聖寺と聯んで江戸に二つしかない黄蘗風の仏殿として江戸時代から著名であった。この向島名物の一つに数えられた大伽藍が松雲和尚の刻んだ捻華微笑の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽く灰とな・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・クロムウェルがアングロサクソン民族の王国を造ったことは大事業でありますけれども、クロムウェルがあの時代に立って自分の独立思想を実行し、神によってあの勇壮なる生涯を送ったという、あのクロムウェル彼自身の生涯というものは、これはクロムウェルの事・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・昔、村の小学校時代にオルガンを見て、懐かしく思ったように、やはり懐かしい、遠い、感じがしたのであります。 その家には、ちょうど露子の姉さんに当たるくらいのお方がありまして、よく露子をあわれみ、かわいがられましたから、露子は真の姉さんとも・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・いや、少年時代のたわいない気持のせんさくなどどうでもよろしい。が、とにかく、そのことがあってから、私は奉公を怠けだした。――というと、あるいは半分ぐらい嘘になるかもしれない。そんなことがなくても、そろそろ怠け癖がついているのです。使いに行け・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫