・・・ そのうちにもう生命の影も認められないようになった子猫はすぐに裏庭の桃の木の下に埋めた。埋めてしまった後に、もしやまだ生きていたのではなかったかという不安な心持ちがして来て非常にいやな気がした。しかしもう一度それを掘りかえして見るだけの・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・ ちらほら人が立ちどまって見る、にやにや笑って行くものがある、向うの樫の木の下に乳母さんが小供をつれてロハ台に腰をかけてさっきからしきりに感服して見ている、何を感服しているのか分らない、おおかた流汗淋漓大童となって自転車と奮闘しつつある・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ 漢語を用いていかめしくしたる句蚊遣してまゐらす僧の座右かな売卜先生木の下闇の訪はれ顔「座右」の語は僧に対する多少の尊敬を表わし、「売卜先生」と言えば「卜屋算」と言いしよりも鹿爪らしく聞えてよく「訪はれ顔」に響けり。・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・そしてにわかに向こうの楢の木の下を見てびっくりして立ちどまります。「あっ、あれなんだろう。あんなところにまっ白な家ができた」「家じゃない山だ」「昨日はなかったぞ」「兵隊さんにきいてみよう」「よし」 二疋の蟻は走ります・・・ 宮沢賢治 「ありときのこ」
・・・朝日にすかされたのを木の下から見ると何だか蛙の卵のような気がする。それにすぐ古くさい歌やなんか思い出すしまた歌など詠むのろのろしたような昔の人を考えるからどうもいやだ。そんなことがなかったら僕はもっと好きだったかも知れない。誰も桜が立派だな・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・一太は竹の三股を担いで栗の木の下へ行った。なるほど栗がなっている。一太は一番低そうな枝を目がけ力一杯ガタガタ三股でかき廻した。弾んで、イガごと落ちて来た。ころころ一尺ばかりの傾斜を隣の庭へ転げ込みそうになる。一太は周章てて下駄で踏みつけた。・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 紫の雲の様に咲く花ももう見られないと達は、その木の下で、姉と飯事をした幼い思い出にひたって居た。 政が帰ってからも栄蔵は非常に興奮して耳元で鼓動がするのを感じて居た。 お節を前に置いて栄蔵は、政を罵って居るうちにフトお節の懐に・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・丁度土曜日なので、花房は泊り掛けに父の家へ来て、診察室の西南に新しく建て増した亜鉛葺の調剤室と、その向うに古い棗の木の下に建ててある同じ亜鉛葺の車小屋との間の一坪ばかりの土地に、その年沢山実のなった錦茘支の蔓の枯れているのをむしっていた。・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・絨緞を織る工場の女工なんぞが通り掛かって、あの人達は木の下で何をしているのだろうと云って、驚いて見ていました。」 暑い夏も過ぎた。秀麿はお母あ様に、「ベルリンではこんな日にどうしているの」と問われて、暫く頭を傾けていたが、とうとう笑いな・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・数羽の鶏の群れが藁小屋を廻って、梨の木の下から一羽ずつ静に彼の方へ寄って来た。「好えチャボや。」と安次は呟いて鶏の群れを眺めていた。 お霜は遅れた一羽の鶏を片足で追いつつ大根を抱えて藁小屋の裏から現れた。「また来たんか?」「・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫