・・・わたしの宿の主人の話によれば、いつか凩の烈しい午後にこの温泉町を五十戸ばかり焼いた地方的大火のあった時のことです。半之丞はちょうど一里ばかり離れた「か」の字村のある家へ建前か何かに行っていました。が、この町が火事だと聞くが早いか、尻を端折る・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・この凩! 病む人の身をいかんする。ミリヤアドは衣深く引被ぐ。かくは予と高津とに寝よとてこそするなりけれ。 かかる夜を伽する身の、何とて二人の眠らるべき。此方もただ眠りたるまねするを、今は心安しとてやミリヤアドのやや時すぐれば、ソト顔を出・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・ いつのまにか、冬がきてしまいました。 木枯らしの吹く夜のことです。地の上には、二、三日前に降った大雪がまだ消えずに残っていました。空には、きらきらと星が、すごい雲間に輝いていました。 ここに憐れな年とった按摩がありました。毎晩・・・ 小川未明 「海からきた使い」
・・・ 政ちゃんは、寒い、木枯らしの吹きそうな、晩方の、なんとなく、物悲しい、西空の、夕焼けの色を、目に描いたのです。「どっちから、ペスが、歩いてきたか、知っている?」と正ちゃんは、政ちゃんに、たずねました。「市場の方から、歩いてきた・・・ 小川未明 「ペスをさがしに」
・・・と、良吉はいいました。木枯らしは、そのさびしいほかにはだれも人影のいない墓地に吹きすさんで、枯れた葉が、空や、地の上にわびしくまわっていました。そして、しばらくそこに良吉はいますと、やがて日がうす暗くなります。すると彼は名残惜しそうに帰・・・ 小川未明 「星の世界から」
・・・冬。凩が吹いて、人が殺された。泥棒の噂や火事が起こった。短い日に戸をたてる信子は舞いこむ木の葉にも慴えるのだった。 ある朝トタン屋根に足跡が印されてあった。 行一も水道や瓦斯のない不便さに身重の妻を痛ましく思っていた矢先で、市内に家・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・そしてそれは凩に追われて、砂漠のような、そこでは影の生きている世界の遠くへ、だんだん姿を掻き消してゆくのであった。 堯はそれを見終わると、絶望に似た感情で窓を鎖しにかかる。もう夜を呼ぶばかりの凩に耳を澄ましていると、ある時はまだ電気も来・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・秋やや老いて凩鳴りそむれば物さびしさ限りなく、冬に入りては木の葉落ち尽くして庭の面のみ見すかさるる、中にも松杉の類のみは緑に誇る。詩人は朝夕にこの庭を楽しみて暮らしき。 ある年の冬の初め、この庭の主人は一人の老僕と、朝な朝な箒執りて落ち・・・ 国木田独歩 「星」
・・・梢をわたる風の音遠く聞こゆ、ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒の凩なるかな。雪どけの滴声軒をめぐる」同二十日――「美しき朝。空は片雲なく、地は霜柱白銀のごとくきらめく。小鳥梢に囀ず。梢頭針のごとし」二月八日――「梅咲きぬ。月よ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・生命拾いをした広岡学士がよくよく酒に懲りて、夏中奥さん任せにしてあった朝顔棚の鉢も片附け、種の仕分をする時分に成ると、高瀬の家の屋根へも、裏の畠へも、最早激しい霜が来た。凩も来た。土も、岩も、人の皮膚の色までも、灰色に見えて来た。日光そのも・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫