・・・ 父親は炭でも蕈でもそれがいい値で売れると、きまって酒くさいいきをしてかえった。たまにはスワへも鏡のついた紙の財布やなにかを買って来て呉れた。 凩のために朝から山があれて小屋のかけむしろがにぶくゆすられていた日であった。父親は早暁か・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・そのいちょうも次第に落葉して、箒をたてたようなこずえにNWの木枯らしがイオリアンハープをかなでるのも遠くないであろう。そうなれば自身の寒がりのカメラもしばらく冬眠期に入って来年の春の若芽のもえ立つころを待つことになるであろう。・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
・・・ 夜ふけて人通りのまばらになった表の通りには木枯らしが吹いていた。黒光りのする店先の上がり框に腰を掛けた五十歳の父は、猟虎の毛皮の襟のついたマントを着ていたようである。その頭の上には魚尾形のガスの炎が深呼吸をしていた。じょさいのない中老・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・窪んだ眼にまさに没せんとする日が落ちて、頬冠りした手拭の破れから出た一束の白髪が凩に逆立って見える。再びヨボヨボと歩き出すと、ひとしきりの風が驀地に道の砂を捲いて老翁を包んだ時余は深き深き空想を呼起こした。しかしてこの哀れなる垂死の人の生涯・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・ 四五人、五六人という群れになって北山おろしの木枯らしに吹かれながら軒並みをたずねて玄関をおとずれ、口々にわざと妙な作り声をして「カイツットーセ」という言葉を繰り返す。「粥釣りをさせてください」という意味の方言なのである。すると家々では・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・実に悲惨な格好をしていたものであった。木枯らしの吹くたそがれ時などに背中へ小さなふろしき包みなど背負ってとぼとぼ野道を歩いている姿を見ると、ひどく感傷的になってわあっと泣き出したいような気持ちになったものである。もういっそう悲惨なのは田んぼ・・・ 寺田寅彦 「ステッキ」
木枯らしの夜おそく神保町を歩いていたら、版画と額縁を並べた露店の片すみに立てかけた一枚の彩色石版が目についた。青衣の西洋少女が合掌して上目に聖母像を見守る半身像である。これを見ると同時にある古いなつかしい記憶が一時に火をつ・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・美代が宿入りの夜など、木枯らしの音にまじる隣室のさびしい寝息を聞きながら机の前にすわって、ランプを見つめたまま、長い息をすることもあった。妻は医者の間に合いの気休めをすっかり信じて、全く一時的な気管の出血であったと思っていたらしい。そうでな・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・しかし木枯らし吹く夕暮れなどに遠くから風に送られて来るラッパの声は妙に哀愁をおびて聞こえるものである。 勇ましいということの裏には本来いつでも哀れなさびしさが伴なっているのではないかという気がする。 九 東郷・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・覘いている竹村君の後ろをジャン/\と電車が喧しい音を立てて行くと、切るような凩が外套の裾をあおる。隣りの文房具店の前へ来るとしばらく店口の飾りを眺めていたが戸を押し開けてはいって行った。眩しいような瓦斯燈の下に所狭く並べた絵具や手帳や封筒が・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
出典:青空文庫