・・・ 寺田の細君は本名の一代という名で交潤社の女給をしていた。交潤社は四条通と木屋町通の角にある地下室の酒場で、撮影所の連中や贅沢な学生達が行く、京都ではまず高級な酒場だったし、しかも一代はそこのナンバーワンだったから、寺田のような風采の上・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・亀吉というのが本名なら、もう綽名をつける必要はない。 豹吉の傍へ寄って来ると、「兄貴、えらいこっちゃ。刑事の手が廻った!」 亀吉は血相を変えていきなり言った。 お加代の顔には瞬間さっと不安な翳が走ったが、豹吉は顔の筋肉一・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・今は本名の照枝だが、当時は勤先の名で、瞳といっていた。道頓堀の赤玉にいた。随分通ったものである、というのも阿呆くさいほど今更めく。といっても、もともと遊び好きだった訳でもなかったのだ。 親の代からの印刷業で、日がな一日油とインキに染って・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・ しかるに、ただ一人、『杉の杜のひげ』とあだ名せられて本名は並木善兵衛という老人のみが次のごとくに言った。『豊吉が何をしでかすものぞ、五年十年のうちにはきっと蒼くなって帰って来るから見ていろ。』『なぜ?』その席にいた豊吉の友が問・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・私の名前を呼ばれたのが恥ずかしくて逃げてしまった。私の本名は、修治というのである。 中畑さんに思いがけなく呼びかけられてびっくりした経験は、中学時代にも、一度ある。青森中学二年の頃だったと思う。朝、登校の途中、一個小隊くらいの兵士とすれ・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・ヒミツ絶対に厳守いたします。本名で御書き下さらば尚うれしく存じます。」「拝復。めくら草子の校正たしかにいただきました。御配慮恐入ります。只今校了をひかえ、何かといそがしくしております。いずれ。匆々。相馬閏二。」 月日。「近頃・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ああ、私が本名を言わずに、他人の名前を借りたことが、こんなときに役立とうとは。 十 万事がうまく行った。私は、わざと出発をのばして、まちの様子をひそかにさぐった。雪が酒に酔って、海岸を散歩して、どこかの岩をふみ・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・ それは仮名で、本名は別にあるんだけれど、教えてやらないよ。「そうです。こないだは、ありがとう。」「いいえ、こちらこそ。」「どちらへ?」「あなたは?」 用心していやがる。「音楽会。」「ああ、そう。」 安心・・・ 太宰治 「渡り鳥」
・・・この話はつくりごとでないから本名で書くが、その少年の名は林茂といった心の温かい少年で、私はいまでも尊敬している。家庭が貧しくて、学校からあがるとこんにゃく売りなどしなければならなかった私は、学校でも友達が少なかったのに、林君だけがとても仲よ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ 娘の本名はもとより知らず、家も佐竹とばかりで番地もわからない。雪の夜の名残は消えやすい雪のきえると共に、痕もなく消去ってしまったのである。巷に雨のふるやうにわが心にも雨のふるという名高いヴェルレーヌの詩に傚って、も・・・ 永井荷風 「雪の日」
出典:青空文庫