・・・と涙を叱りつけながら、そっと寝床を抜け出して本棚の所に行って上から下までよく見ましたけれども、帽子らしいものは見えません。僕は本当に困ってしまいました。「帽子を持って寝たのは一昨日の晩で、昨夜はひょっとするとそうするのを忘れたのかも知れ・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・ ひやかしながら、本棚の本を一冊抜きだして、バラバラめくっていると、百円札が一枚下に落ちた。「おい、隠匿紙幣が出て来たぞ」「おや、出て来たのか。しかし、隠匿じゃない、忘却紙幣だ。入れたまま忘れてしまっていたんだ。どっちにしても、・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・私は何かこう目に見えないものが群がり起こって来るような心持ちで、本棚がわりに自分の蔵書のしまってある四畳半の押入れをもあけて見た。いよいよこの家を去ろうと心をきめてからは、押入れの中なぞも、まるで物置きのようになっていた。世界を家とする巡礼・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・そうして私は、いつまでも薄汚いのんだくれだ。本棚に私の著書を並べているサロンは、どこにも無い。 けれども、私がこうしてサロンがどうのと、おそろしくむきになって書いても、それはいったい何の事だか、一向にわからない人が多いだろうと思われる。・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・という本を本棚にかざってあるのを私は見たことがあって、自分の生活を健康と名づけ、ご近所のものたちもまた、その友人を健康であると信じているようである。もし友人が、その小説を読み、「おれは君のあの小説のために救われた。」と言ったなら、私もまた、・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・ 私は、腕をのばし、机のわきの本棚から、或る日本の作家の、短篇集を取出し、口を、ヘの字型に結んだ。何か、顕微鏡的な研究でもはじめるように、ものものしく気取って、一頁、一頁、ゆっくりペエジを繰っていった。この作家は、いまは巨匠といわれてい・・・ 太宰治 「懶惰の歌留多」
・・・思い余って立ち上り、本棚の本を、あれこれと取り出し、覗いてみた。いいものを見つけた。パウロの書翰集。テモテ前書の第二章。このラプンツェル物語の結びの言葉として、おあつらいむきであると長兄は、ひそかに首肯き、大いにもったい振って書き写した。・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・先生が出て来て、黙って床の間の本棚から算術の例題集を出してくれる。横に長い黄表紙で木版刷りの古い本であった。「甲乙二人の旅人あり、甲は一時間一里を歩み乙は一里半を歩む……」といったような題を読んでその意味を講義して聞かせて、これ・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・ここにまた大きな本棚があって本が例のごとくいっぱい詰まっている。やはり読めそうもない本、聞いた事のなさそうな本、入りそうもない本が多い。勘定をしたら百三十五部あった。この部屋も一時は客間になっておったそうだ。ビスマークがカーライルに送った手・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・を出して本棚や机をふいて、食堂から花を持って来たり、鼠に食われる恐ろしさに仕舞って置く人形や「とんだりはねたり」を並べたりする。 妙にそわそわして胸がどきどきする。 母に笑われる。でも仕方がない。 花を折りに庭へ出て書斎の前の、・・・ 宮本百合子 「秋風」
出典:青空文庫