・・・物慣れた甚太夫は破れ扇に鳥目を貰いながら、根気よく盛り場を窺いまわって、さらに倦む気色も示さなかった。が、年若な求馬の心は、編笠に憔れた顔を隠して、秋晴れの日本橋を渡る時でも、結局彼等の敵打は徒労に終ってしまいそうな寂しさに沈み勝ちであった・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ですから帰朝後二三年の間、彼は毎日あのナポレオン一世を相手に、根気よく読書しているばかりで、いつになったら彼の所謂『愛のある結婚』をするのだか、とんと私たち友人にも見当のつけようがありませんでした。「ところがその中に私はある官辺の用向き・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・その間奥さんは根気好く黙って、横を向いている。美しい、若々しい顔が蒼ざめて、健康をでも害しているかというように見える。「もう時間だ。」フレンチは時計を出して一目見て、身を起した。 出口のところで、フレンチが靴の上に被せるものを捜して・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・……「根気の薬じゃ。」と、そんな活計の中から、朝ごとに玉子を割って、黄味も二つわけにして兄弟へ…… 萎れた草に露である。 ――今朝も、その慈愛の露を吸った勢で、謹三がここへ来たのは、金石の港に何某とて、器具商があって、それにも工・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・人目を憚るのだから、忍びに忍んで潜入するのだが、いや、どうも、我折れた根気のいい事は、朝早くでも、晩方でも、日が暮れたりといえどもで、夏の末のある夜などは、ままよ宿鳥なりと、占めようと、右の猟夫が夜中真暗な森をさまよううちに、青白い光りもの・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・いろいろ理屈をひねくって根気よく初志を捨てないのがこの人の癖である、おとよはこれからつらくなる。 お千代はそれほど力になる話相手ではないが悪気のない親切な女であるから、嫁小姑の仲でも二人は仲よくしている。それでお千代は親切に真におとよに・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・が、この大根気、大努力も決して算籌外には置かれないので、単にこの点だけでも『八犬伝』を古往今来の大作として馬琴の雄偉なる大手筆を推讃せざるを得ない。 殊に失明後の労作に到っては尋常芸術的精苦以外にいかなる障碍にも打ち勝ってますます精進し・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・だれも目にみえないところにすんでいるものを、釣れるとか、釣れないとかいうことはできない。根気ひとつだ。釣れるまで待っているよりかしかたがない。」と、その見なれないようすをした人はいいました。下男は、なるほどそれにちがいないと考えました。・・・ 小川未明 「北の国のはなし」
・・・この、少しの反抗力をも有しない彼等に対してすら、その執拗と根気に怖れをなしているので、考えただけで、身震いがしました。 こういうと、自分の行為に矛盾した話であるが、しばらく、利害の念からはなれて、害虫であろうと、なかろうと、それが有・・・ 小川未明 「近頃感じたこと」
・・・それに、実際物を書くべくいかに苦患な状態であるか――にもかかわらず、S君は毎日根気よくやってきては、袴の膝も崩さず居催促を続けているという光景である。アスピリンを飲み、大汗を絞って、ようよう四時過ぎごろに蒲団を出て、それから書けても書けなく・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
出典:青空文庫