・・・僕の目の前には扇が一本、二尺に足りない机の外へ桃色の流蘇を垂らしていた。この扇は僕のここへ来る前に誰かの置き忘れて行ったものだった。僕は鉛筆を動かしながら、時々又譚の顔を思い出した。彼の玉蘭を苦しめた理由ははっきりとは僕にもわからなかった。・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 桜頃のある夜、お君さんはひとり机に向って、ほとんど一番鶏が啼く頃まで、桃色をしたレタア・ペエパアにせっせとペンを走らせ続けた。が、その書き上げた手紙の一枚が、机の下に落ちていた事は、朝になってカッフェへ出て行った後も、ついにお君さんに・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・手紙は桃色の書簡箋に覚束ないペンの字を並べたものだった。彼は一通り読んでしまうと、一本の巻煙草に火をつけながら、ちょうど前にいたY中尉にこの手紙を投げ渡した。「何だ、これは? ……『昨日のことは夫の罪にては無之、皆浅はかなるわたくしの心・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
青黄ろく澄み渡った夕空の地平近い所に、一つ浮いた旗雲には、入り日の桃色が静かに照り映えていた。山の手町の秋のはじめ。 ひた急ぎに急ぐ彼には、往来を飛びまわる子供たちの群れが小うるさかった。夕餉前のわずかな時間を惜しんで・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ 見ても、薄桃色に、また青く透明る、冷い、甘い露の垂りそうな瓜に対して、もの欲げに思われるのを恥じたのであろう。茶店にやや遠い人待石に―― で、その石には腰も掛けず、草に蹲って、そして妙な事をする。……煙草を喫むのに、燐寸を摺った。・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 薄色の桃色の、その一つの紅茸を、灯のごとく膝の前に据えながら、袖を合せて合掌して、「小松山さん、山の神さん、どうぞ茸を頂戴な。下さいな。」と、やさしく、あどけない声して言った。「小松山さん、山の神さん、 どうぞ、茸を頂戴な・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・「まあ、あれ、あれ、ご覧なさいまし、長刀が空を飛んで行く。」…… 榎の梢を、兎のような雲にのって。「桃色の三日月様のように。」 と言った。 松島の沿道の、雨晴れの雲を豆府に、陽炎を油揚に見物したという、外道俳人、小県の目・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ といいかけて咽泣き、懐より桃色の絹の手巾をば取り出でつつ目を拭いしを膝にのして、怨めしげに瞻りぬ。「新さん、手巾でね、汗を取ってあげるんですがね、そんなに弱々しくおなんなすった、身体から絞るようじゃありませんか。ほんとに冷々するん・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・つぶつぶ絣の単物に桃色のへこ帯を後ろにたれ、小さな膝を折ってその両膝に罪のない手を乗せてしゃがんでいる。雪子もお児もながら、いちばん小さい奈々子のふうがことに親の目を引くのである。虱がわいたとかで、つむりをくりくりとバリカンで刈ってしもうた・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・良人沼南と同伴でない時はイツデモ小間使をお伴につれていたが、その頃流行した前髪を切って前額に垂らした束髪で、嬌態を作って桃色の小さいハンケチを揮り揮り香水の香いを四辺に薫じていた。知らないものは芸者でもなし、娘さんでもなし、官員さんの奥様ら・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
出典:青空文庫