・・・ 瞳のことだ――と察して、坂田はそのためのこの落ちぶれ方やと、殆んど口に出かかったが、「へえ。仲良くやってまっせ。照枝のことでっしゃろ」 楽しい二人の仲だと、辛うじて胸を張った。これは自分にも言い聴かせた。照枝がよう尽してくれる・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・などと、それからそれと楽しい空想に追われて、数日来の激しい疲労にもかかわらず、彼は睡むることができなかった。二 翌朝彼は本線から私線の軽便鉄道に乗替えて、秋田のある鉱山町で商売をしている弟の惣治を訪ねた。そして四五日逗留して・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・自分のいるところからいつも人の窓が見られたらどんなに楽しいだろうと、いつもそう思ってるんです。そして僕の方でも窓を開けておいて、誰かの眼にいつも僕自身を曝らしているのがまたとても楽しいんです。こんなに酒を飲むにしても、どこか川っぷちのレスト・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・それは見えているというよりも、吉田が無理をして見ているので、それを見ているということがなんとも言えない楽しい気持を自分に起こさせていることを吉田は感じていた。そして吉田の寐られないのはその気持のためで、言わばそれはやや楽しすぎる気持なのだっ・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・それから又一月ばかりは何のこともなく、ただうれしい楽しいことばかりで……」「なるほどこれはお安価くないぞ」と綿貫が床を蹶って言った。「まア黙って聴きたまえ、それから」と松木は至極真面目になった。「其先を僕が言おうか、こうでしょう・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・おそらくこの時が彼の最も楽しい時で、また生きている気持ちのする時であろう。しかし、まもなく目をあけて、「けれども、だめだ、もうだめだ、もう戦争はやんじゃった、古い号外を読むと、なんだか急に年をとってしまって、生涯がおしまいになったような・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・一時間が何千円に当った訳だ、なぞと譏る者があるが、それは譏る方がケチな根性で、一生理屈地獄でノタウチ廻るよりほかの能のない、理屈をぬけた楽しい天地のあることを知らぬからの論だ。趣味の前には百万両だって煙草の煙よりも果敢いものにしか思えぬこと・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・次郎坊が小生に対って、早く元のご主人様のお嬢様にお逢い申したいのですが、いつになれば朝夕お傍に居られるような運びになりましょうかなぞと責め立てて困りまする、と云って紅い顔をさせたりして、真実に罪のない楽しい日を送っていた。」と古えの賤の・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・だから、プロレタリアの解放のために仕事をやって行こうとするお前たちのことが分るのだが、何んだか自分の楽しい未来のもくろみが、そのためにガタ/\と崩されて行くのを見ていることが出来ないのだよ。こんな気持をもっているから、警察ではお前の母は一番・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・熱い空気に蒸される林檎の可憐らしい花、その周囲を飛ぶ蜜蜂の楽しい羽音、すべて、見るもの聞くものは回想のなかだちであったのである。其時自分は目を細くして幾度となく若葉の臭を嗅いで、寂しいとも心細いとも名のつけようのない――まあ病人のように弱い・・・ 島崎藤村 「朝飯」
出典:青空文庫