・・・局部にとらわれて全体の権衡を見失う事もいよいよ多かった。セザンヌが「わかりますか、ヴォラール君。輪郭線が見る人から逃げる」と言ったほんとうの意味はよくはわからぬが、全くそういったような気のする事がしばしばあった。右の頬をつかまえたと思う間に・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・ しかるに各課担任の教師はその学問の専門家であるがため、専門以外の部門に無識にして無頓着なるがため、自己研究の題目と他人教授の課業との権衡を見るの明なきがため、往々わが範囲以外に飛び超えて、わが学問の有効を、他の領域内に侵入してまでも主・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・而してその智力は権衡もって量るべきものに非ざれば、その増減を察すること、はなはだ難し。家厳が力をつくして育し得たる令息は、篤実一偏、ただ命これしたがう、この子は未だ鳥目の勘定だも知らずなどと、陽に憂てその実は得意話の最中に、若旦那のお払いと・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ かように、いつの間にか彼女の心のどこかで育っていた、理智と感情との権衡を失した力の争闘は、幾多の朦朧とした煩悶を産んで、小学時代の最後の一年間に、子供らしい無邪気さや、活気や、勇猛心は、皆彼女のどこからも消滅してしまったように見えてい・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・「国際経済統制の権衡の大部分はアメリカ合衆国に移動した。戦時中アメリカが集積した債務はこの移動の一原因にすぎぬ。アメリカの莫大なる天然資源、素晴らしい国内消費、不断に展開しつつある繁栄。これらもまた考慮に入れなければならない。西欧の資本・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・年ごろはたしかに知れないが眼鼻や口の権衡がまだよくしまッていないところで考えればひどく長けてもいないだろう。そのくせに坐り丈はなかなかあッて、そして(少女の手弱腕首が大層太く、その上に人を見る眼光が……眼は脹目縁を持ッていながら……、難を言・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・それは相戦う力が完全な権衡に達した時の崇高な静寂である。尽くることなき力を人の心に暗示する深い沈黙である。そうして、この簡素な太い力の間を縫う細やかな曲線と色との豊富微妙な伴奏は、荘厳に圧せられた人の心に優しいしめやかな手を触れる。――・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
出典:青空文庫