・・・「本日は弟と歌舞伎座に行く事になっていた。――父の病気に対する『愛なき恐れ』、金に対する不安、母の辛苦、不孝のために失われたる親子の愛情、学業に対する不忠実、このようなものが入り乱れている頭には、この大芝居の忠臣蔵もおもしろいはずはない・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・有楽座帝国劇場歌舞伎座などを見物した帰りには必ず銀座のビイヤホオルに休んで最終の電車のなくなるのも構わず同じ見物帰りの友達と端しもなく劇評を戦わすのであった。上野の音楽学校に開かれる演奏会の切符を売る西洋の楽器店は、二軒とも人の知っている通・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・ 震災の後、上海の俳優が歌舞伎座で孫悟空の狂言を演じたことがあったが、わたくしはそれを看た時、はっきり原作の『西遊記』を記憶していることを知った。『太平記』の事が話頭に上ると、わたくしは今でも「落花の雪にふみまよふ片野あたりの桜狩」と、・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・同時に擬古派の歌舞伎座において、大薩摩を聞く事を喜ぶのは、古きものの中にも知らず知らず浸み込んだ新しい病毒に、遠からず古きもの全体が腐って倒れてしまいそうな、その遣瀬ない無常の真理を悟り得るがためである。思えばかえって不思議にも、今日という・・・ 永井荷風 「妾宅」
この間田舎へかえる親戚のもののお伴をして珍しく歌舞伎座を観た。十一月のことで、序幕に敵国降伏、大詰に笠沙高千穂を据えた番組であった。 この芝居をみていて深く感じたことは演劇のとりしまりや自粛がどんなに芸術の生命を活かす・・・ 宮本百合子 「“健全性”の難しさ」
・・・こんな時には大抵祖母の歌舞伎座だの、帝劇だのの話が出る。「小屋だけ見ても結構なもので。と天井に絵の張ってある事、電気がまぼしくついて居る事、ほんとうに、縮緬や緞子の衣裳をつけて居る事などを、単純な言葉で話すのだけれ共、しまい・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・市内のデパートで百円以上の反物が飾窓に出されて数時間のうちに売れてしまうということ、角力と芝居と花柳界の繁昌は未曾有であるが、歌舞伎座で来週は何がかかるかと訊く観客が出現しているということ。然し現代風俗として見るとき、これらの現象はこれだけ・・・ 宮本百合子 「風俗の感受性」
渡辺参事官は歌舞伎座の前で電車を降りた。 雨あがりの道の、ところどころに残っている水たまりを避けて、木挽町の河岸を、逓信省の方へ行きながら、たしかこの辺の曲がり角に看板のあるのを見たはずだがと思いながら行く。 人通・・・ 森鴎外 「普請中」
出典:青空文庫