・・・晩年京師に留り遂にその地に終った。雲如の一生は寛政詩学の四大家中に数えられた柏木如亭に酷似している。如亭も江戸の人で生涯家なく山水の間に放吟し、文政の初に平安の客寓に死したのである。 遠山雲如の『墨水四時雑詠』には風俗史の資料となるべき・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・文鳥はぱっと留り木を離れた。そうしてまた留り木に乗った。留り木は二本ある。黒味がかった青軸をほどよき距離に橋と渡して横に並べた。その一本を軽く踏まえた足を見るといかにも華奢にできている。細長い薄紅の端に真珠を削ったような爪が着いて、手頃な留・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ 戦慄から、私は殆んど息が止まり、正に昏倒するところであった。これは人間の住む世界でなくて、猫ばかり住んでる町ではないのか。一体どうしたと言うのだろう。こんな現象が信じられるものか。たしかに今、私の頭脳はどうかしている。自分は幻影を見て・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・所謂言葉の采配、又売物の掛直同様にして、斯くまでに厳しく警めたらば少しは注意する者もあらんなど、浅墓なる教訓なれば夫れまでのことなれども、真実真面目に古礼を守らしめんとするに於ては、唯表向の儀式のみに止まりて裏面に却て大なる不都合を生ずるこ・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・しかしわたくしだけが知っている事を、イソダンの人達に皆知らせるのが厭になって、わたくしは羞恥の心から思い留まりました。夫は取引の旅行中にその女どもに逢っていますので、イソダンでは誰も知らずにいるのでございます。 そこでわたくしはどういた・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ 芭蕉の句は人事を詠みたるもの多かれど、皆自己の境涯を写したるに止まり鞍壺に小坊主のるや大根引のごとく自己以外にありて半ば人事美を加えたるすらきわめて少し。 蕪村の句は行く春や選者を恨む歌の主命婦より牡丹餅たばす・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ファゼーロはしばらく経ってぴたりと止まりました。「あ、こいつだ、そらね。」 見るとそこにはファゼーロが作ったらしく、一本の棒を立ててその上にボール紙で矢の形を作って北西の方を指すようにしてありました。「さあ、こっちへ行くんだ。向・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・プラットフォームの群集は、例のとおり、止りかかる電車目がけて殺到した。すると、高く駅員の声が響いた。「この電車は、南方より復員の貸切電車であります。どなたも、おのりにならないように願います」 丁度目の前でドアが開いて、七分通り満員の・・・ 宮本百合子 「一刻」
・・・その行き留まりにあるのである。廊下の横手には、お客を通す八畳の間が両側に二つずつ並んでいてそのはずれの処と便所との間が、右の方は女竹が二三十本立っている下に、小さい石燈籠の据えてある小庭になっていて、左の方に茶室賽いの四畳半があるのである。・・・ 森鴎外 「心中」
・・・人間の成長がすぐ止まりました。彼らの内に萌え出た多くの芽は芽の内に枯れてしまいました。そこへ行くと夏目先生はやはり偉かったと思います。先生の教養の光は五十を越してだんだん輝き出しそうになっていました。若々しい弾性はいつまでも消えないでいまし・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
出典:青空文庫