・・・あすこをもっと行くと諏訪の森の近くに越後様という殿様のお邸があった。あのお邸の中に桑木厳翼さんの阿母さんのお里があって鈴木とかいった。その鈴木の家の息子がおりおり僕の家へ遊びに来たことがあった。 僕の家の裏には大きな棗の木が五六本もあっ・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・ なぜかなら、その村は、殿様が追い詰められた時に、逃げ込んで無理にこしらえた山中の一村であったから、なんにも産業というものがなかった。 で、中学の存在によって繁栄を引き止めようとしたが、困ったことには中学がその地方十里以内の地域に一・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ また、四民同権の世態に変じたる以上は、農商も昔日の素町人・土百姓に非ずして、藩地の士族を恐れざるのみならず、時としては旧領主を相手取りて出訴に及び、事と品によりては旧殿様の家を身代限にするの奇談も珍しからず。昔年、馬に乗れば切捨てられ・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・、朝夕主人の言行を厳重正格にして、家人を視ること他人の如くし、妻妾児孫をして己れに事うること奴隷の主君におけるが如くならしめ、あたかも一家の至尊には近づくべからず、その忌諱には触るべからず、俗にいえば殿様旦那様の御機嫌は損ずべからずとして、・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・日本の封建性――殿様とだんな様との御乱行がいつもそのめしたのものや女に向ってあらわされるというなさけない習慣です。泉山蔵相のくだのなかで「新給与問題よりも山下春江女史の方がすきだということの方が問題だ」といったということが新聞にでていますが・・・ 宮本百合子 「泉山問題について」
・・・ 明治維新は本当のブルジョア革命でなく、昔の殿様である封建領主、下級武士たちの権力に未熟な産業資本が結合したもので、土地小作の関係は実に古い封建制度のままもちこされた。そのために日本の農村の貧困は甚しく農家から貧乏のために一年幾ら、二年・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・忠直卿は、昔の殿様としてはびっくりするくらいむき出しのヒューメンな若者として扱われており、その点では作者が一見常識を蹴とばしているようだのに、さてそれならそのように苦しむ自分を虚偽と知らぬ虚偽でとりかこみ、それを命にかけて守っている者どもと・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・余り賢くあること、余り英邁であること、それさえも脅威をもたらした。殿様は馬鹿でなければならなかった。そういう日本の封建の気風の中では、一つの藩が、とびぬけて卓抜な学者、芸術家をもっているということさえも不安であった。 東北の伊達一族は、・・・ 宮本百合子 「木の芽だち」
・・・それは殿様がお隠れになった当日から一昨日までに殉死した家臣が十余人あって、中にも一昨日は八人一時に切腹し、昨日も一人切腹したので、家中誰一人殉死のことを思わずにいるものはなかったからである。二羽の鷹はどういう手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたか、・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ これまでは、ズット北の山の中に、徳蔵おじと一処にいたんですが、そのまえは、先の殿様ね、今では東京にお住いの従四位様のお城趾を番していたんです。足利時代からあったお城は御維新のあとでお取崩しになって、今じゃ塀や築地の破れを蔦桂が漸く着物・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫