・・・茶の間には長火鉢の上の柱に、ある毛糸屋の広告を兼ねた、大きな日暦が懸っている。――そこに髪を切った浅川の叔母が、しきりと耳掻きを使いながら、忘れられたように坐っていた。それが洋一の足音を聞くと、やはり耳掻きを当てがったまま、始終爛れている眼・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・少女はもう膝の上に毛糸の玉を転がしたなり、さも一かど編めるように二本の編み棒を動かしている。それが眼は油断なしに編み棒の先を追いながら、ほとんど媚を帯びた返事をした。「あたし? あたしは来年十二。」「きょうはどちらへいらっしゃるので・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ 鼠色の毛糸のショオルをした、……」「あの西洋髪に結った女か?」「うん、風呂敷包みを抱えている女さ。あいつはこの夏は軽井沢にいたよ。ちょっと洒落れた洋装などをしてね」 しかし彼女は誰の目にも見すぼらしいなりをしているのに違いなか・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・しかも垢じみた萌黄色の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下った膝の上には、大きな風呂敷包みがあった。その又包みを抱いた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事そうにしっかり握られていた。私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかった。それから彼女の服装が不潔・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・「毛利先生が電車の吊皮につかまっていられるのを見たら、毛糸の手袋が穴だらけだったって云う話です。」 自分たちは丹波先生を囲んで、こんな愚にもつかない事を、四方からやかましく饒舌り立てた。ところがそれに釣りこまれたのか、自分たちの声が・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・手で石の角をつかむたんびに冷たさが毛糸の手袋をとおしてしみてくる。鼻のあたまがつめたくなって息がきれる。はっはっ言うたびに口から白い霧が出る。途中でふり向いて見ると谷底まで黒いものがつづいてその中途で白いまるいものと細長いものとが動いていた・・・ 芥川竜之介 「槍が岳に登った記」
・・・脊の高い瘠男の、おなじ毛糸の赤襯衣を着込んだのが、緋の法衣らしい、坊主袖の、ぶわぶわするのを上に絡って、脛を赤色の巻きゲエトル。赤革の靴を穿き、あまつさえ、リボンでも飾った状に赤木綿の蔽を掛け、赤い切で、みしと包んだヘルメット帽を目深に被っ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・――いかに、いかに、写真が歴々と胸に抱いていた、毛糸帽子、麻の葉鹿の子のむつぎの嬰児が、美女の袖を消えて、拭って除ったように、なくなっていたのであるから。 樹島はほとんど目をつむって、ましぐらに摩耶夫人の御堂に駈戻った。あえて目をつむっ・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・小間物店の若い娘が、毛糸の手袋嵌めたのも、寒さを凌ぐとは見えないで、広告めくのが可憐らしい。 気取ったのは、一軒、古道具の主人、山高帽。売っても可いそうな肱掛椅子に反身の頬杖。がらくた壇上に張交ぜの二枚屏風、ずんどの銅の花瓶に、からびた・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 行一は毛糸の首巻に顎を埋めて大槻に別れた。 電車の窓からは美しい木洩れ陽が見えた。夕焼雲がだんだん死灰に変じていった。夜、帰りの遅れた馬力が、紙で囲った蝋燭の火を花束のように持って歩いた。行一は電車のなかで、先刻大槻に聞いた社会主・・・ 梶井基次郎 「雪後」
出典:青空文庫