・・・博士は、よれよれの浴衣に、帯を胸高にしめ、そうして帯の結び目を長くうしろに、垂れさげて、まるで鼠の尻尾のよう、いかにもお気の毒の風采でございます。それに博士は、ひどい汗かきなのに、今夜は、ハンカチを忘れて出て来たので、いっそう惨めなことにな・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ ドリス自身には、技芸の発展が出来なくて気の毒だのなんのと云ったって、分からないかも知れない。結構ずくめの境界である。崇拝者に取り巻かれていて、望みなら何一つわないことはない。余り結構過ぎると云っても好い位である。 ドリスは可哀らし・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・二人は気の毒がって、銃と背嚢とを持ってくれた。 二人は前に立って話しながら行く。遼陽の今日の戦争の話である。 「様子はわからんかナ」 「まだやってるんだろう。煙台で聞いたが、敵は遼陽の一里手前で一支えしているそうだ。なんでも首山・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・永い間胸に抱いてきた罪のない夢の国の美しい夢を冷たい現実でかき乱すのは気の毒で残酷なような気もするのであった。 寺田寅彦 「異郷」
・・・女たちが三人行くことになれば、辰之助には気の毒なことになるし、辰之助を誘えば、誰かが一人ぬけなければならなかった。「京ちゃんは自分で行けばいいのに」お絹は蔭で言ってはいたが、やはりお義理があるらしいので、面と向かっててきぱきしたことは言・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 車掌が革包を小脇に押えながら、帽子を阿弥陀に汗をふきふき駈け戻って来て、「お気の毒様ですがお乗りかえの方はお降りを願います。」 声を聞くと共に乗客の大半は一度に席を立った。その中には唇を尖らして、「どうしたんだ。よっぽどひまが掛る・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・しかし倫理的に申したならば、人が落ちたというに笑うはずがない、気の毒だという同情があって然るべきである、殊に私のような招かれて来た者に対する礼儀としても笑うのは倫理的でない事は明である。けれども笑うという事と、気の毒だと思う事と、どちらか捨・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・お前さんがお叱られじゃお気の毒だね。吉里がこうこうだッて、お神さんに何とでも訴けておくれ」 白字で小万と書いた黒塗りの札を掛けてある室の前に吉里は歩を止めた。「善さんだッてお客様ですよ。さッきからお酒肴が来てるんじゃありませんか」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・にして、殊に道徳の一段に至りては常に周公孔子を云々して、子女の教訓に小学又は女大学等の主義を唱え、家法最も厳重にして親子相接するにも賓客の如く、曾て行儀を乱りたることなく、一見甚だ美なるに似たれども、気の毒なるは主人公の身持不行儀にして婬行・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・夫が不実をしたのなんのと云う気の毒な一条は全然虚構であるかも知れない。そうでないにしても、夫がそんな事をしているのは、疾うから知っていて、別になんとも思わなかったかも知れない。そのうち突然自分が今に四十になると云うことに気が附いて、あんな常・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
出典:青空文庫