・・・私はうつろな気持で寐巻と着かえて、しょんぼり蒲団にもぐりこんだ。とたんに黴くさい匂いがぷんと漂うて、思いがけぬ旅情が胸のなかを走った。 じっと横たわっていると、何か不安定な気がして来た。考えてみると、どうも枕元と襖の間が広すぎるようだっ・・・ 織田作之助 「秋深き」
一 掃除をしたり、お菜を煮たり、糠味噌を出したりして、子供等に晩飯を済まさせ、彼はようやく西日の引いた縁側近くへお膳を据えて、淋しい気持で晩酌の盃を嘗めていた。すると御免とも云わずに表の格子戸をそうっと開け・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・誰でもふとそんな気持に誘われるんじゃないか、というのですが、どうです、あなたはそうしたことをお考えにはならないですか」 もう一人の青年は別に酔っているようでもなかった。彼は相手の今までの話を、そうおもしろがってもいないが、そうかと言って・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・まるで別の世界から言葉をかけられたような気持ちもするし、うれしいけれど、それがそれまでの事である事を知っているから「どうせ長くはない」との感じを、しばしの間でもよいから忘れたくても忘れる事ができないのである。 からだにも心にも、ぽかんと・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・ こんな気持は恋愛から入った夫婦でなくては生じないだろう。 性交は夫婦でなくてもできるが、子どもを育てるということは人間のように愛が進化し、また子どもが一人前になるのに世話のやける境涯では、夫婦生活でなくては不都合だ。それが夫婦生活・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・彼は、反抗的な、むずかしい気持になった。彼は、局長の言葉が耳に入らなかった振りをして、そこに集っている者達に栗島という看護卒が平生からはっきりしない点があることを高い声で話した。間もなく通りから、騒ぎを聞きつけて人々がどや/\這入って来た。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・しかしまた振り返って自分等が住んでいた甲斐の国の笛吹川に添う一帯の地を望んでは、黯然としても心も昧くなるような気持がして、しかもその薄すりと霞んだ霞の底から、桑を摘め摘め、爪紅さした、花洛女郎衆も、桑を摘め。と清い清・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・何かジッとしていられない気持になったのだ。皆の所へ行かなければならないと思った。「さ、坊や、お父ちゃんが帰ってくるんだよ。お父ちゃんが」 お君は背中の子供をゆすり上げ上げ、炎天の下を走った。・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・そんな気持ちから、とかく心も落ちつかなかった。 ある日も私は次郎と連れだって、麻布笄町から高樹町あたりをさんざんさがし回ったあげく、住み心地のよさそうな借家も見当たらずじまいに、むなしく植木坂のほうへ帰って行った。いつでもあの坂の上・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・一方には赤い血の色や青い空の色も欲しいという気持が滅しない。幾ら知識を駆使して見てもこの矛盾は残る。つまり私は一方にはある意味での宗教を観ているとともに、一方はきわめて散文的な、方便的な人生を観ている。この両端にさまよって、不定不安の生を営・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
出典:青空文庫