・・・ 衛生を重ずるため、出来る限りかかる不潔を避けようためには県知事様でもお泊りになるべきその土地最上等の旅館へ上って大に茶代を奮発せねばならぬ。単に茶代の奮発だけで済む事なら大した苦痛ではないが、一度び奮発すると、そのお礼としてはいざ汽車・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・私は昨晩和歌の浦へ泊りましたが、和歌の浦へ行って見ると、さがり松だの権現様だの紀三井寺だのいろいろのものがありますが、その中に東洋第一海抜二百尺と書いたエレヴェーターが宿の裏から小高い石山の巓へ絶えず見物を上げたり下げたりしているのを見まし・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・番頭は当惑したような顔をして、しばらく考えていたが、はなはだ見苦しい所で、一夜泊りのお客様にはお気の毒でございますが、佐野さんのいらしったお座敷なら、どうかいたしましょうと答えた。その口ぶりから察すると、なんでもよほどきたない所らしいので、・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・こよいはうちへお泊りるのじゃあろうナア。」「こよいかな。こよいは是非東京へ帰って活動写真を見に行く約束があるから、泊るわけには行かんが。」「そのいにお急ぎるのか。」「そうヨ、今度はちょっと出て来たのだから………とにかくうちの古い家を見て来よ・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・「事務所へ泊りました。」「そうか。丁度よかった。この人について行ってくれ。玉蜀黍の脱穀をしてるんだ。機械は八時半から動くからな。今からすぐ行くんだ。」農夫長は隣りで脚絆を巻いている顔のまっ赤な農夫を指しました。「承知しました。」・・・ 宮沢賢治 「耕耘部の時計」
・・・ みんなは帰る元気もなくなって、平右衛門の所に泊りました。「源の大将」はお顔を半分切られて月光にキリキリ歯を喰いしばっているように見えました。 夜中になってから「とっこべ、とら子」とその沢山の可愛らしい部下とが又出て来て、庭に抛・・・ 宮沢賢治 「とっこべとら子」
・・・風呂に入りに来たまま泊り、翌日夜になって、翻訳のしかけがある机の前に戻る。そんな日もあった。そこだけ椅子のあるふき子の居間で暮すのだが、彼等は何とまとまった話がある訳でもなかった。ふき子が緑色の籐椅子の中で余念なく細かい手芸をする、間に、・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・どうせ一晩泊りだもん――あっちじゃ伯母さんが来るだろうかねえ」「さあ」「来りゃいいのにね、そうすりゃこの間のことだってあのまんま何てことなくなっちゃっていいんだがね」「来るだろう」 空気枕に頭を押しつけこれ等の会話をききつつ・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・それから二三日たって、ようよう泊まりがけに来ている母に繰り言を言って泣くことができるようになった。それから丸二年ほどの間、女房は器械的に立ち働いては、同じように繰り言を言い、同じように泣いているのである。 高札の立った日には、午過ぎに母・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・ 石田はそれから帰掛に隣へ寄って、薄井の爺さんに、下女の若いのが来るから、どうぞお前さんの処の下女を夜だけ泊りに来させて下さいと頼んだ。そして内へ帰って黙っていた。 翌日口入の上さんが来て、お時婆あさんに話をした。年寄に骨を折らせる・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫