・・・麓の家で方々に白木綿を織るのが轡虫が鳴くように聞える。廊下には草花の床が女帯ほどの幅で長く続いている。二三種の花が咲いている。水仙の一と株に花床が尽きて、低い階段を拾うと、そこが六畳の中二階である。自分が記念に置いて往った摺絵が、そのままに・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・「どうして雲雀は海の上なんぞで鳴くんでしょう」 と子どもが聞きました。「海があんまり緑ですから、雲雀は野原だと思っているんでしょう」 とおかあさんは説き明かしました。 とたちまち霧は消えてしまって、空は紺青に澄みわたって・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・彼は、スバーが自分の不具を悲しんで泣くとは知らず此ほかの解釈を、その涙に対して下そうともしませんでした。 終に暦が調べられ、結婚の儀式は吉日を選んで行われました。 娘の唖な事を隠して他人の手に引渡して、スバーの両親は故郷に帰って仕舞・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ ――また、泣く。おまえは、いつでも、その手を用いた。だが、もう、だめさ。私は、いま、万事が、おのぞみどおりなのだからね。どこかで、お茶でも飲むか。 ――だめ。あたし、いま、はっきり、わかったわ。あなたと、あたしは、他人なのね。いい・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・「せみ鳴くや松のこずえに千曲川。」こんな句がひとりでにできた。 帰りに沓掛の駅でおりて星野行きの乗合バスの発車を待っている間に乗り組んだ商人が運転手を相手に先刻トラックで老婆がひかれたのを目撃したと言って足の肉と骨とがきれいに離れていた・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・変る夜ごとの枕に泣く売春婦の誠の心の悲しみは、親の慈悲妻の情を仇にしたその罪の恐しさに泣く放蕩児の身の上になって、初めて知り得るのである。「傾城に誠あるほど買ひもせず」と川柳子も已に名句を吐いている。珍々先生は生れ付きの旋毛曲り、親に見放さ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 暁は高い欅の梢に鳴く烏で再度の夢を破られた。この烏はかあとは鳴かぬ。きゃけえ、くうと曲折して鳴く。単純なる烏ではない。への字烏、くの字烏である。加茂の明神がかく鳴かしめて、うき我れをいとど寒がらしめ玉うの神意かも知れぬ。 かくして・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・「おお、いい子、いい子、泣くんじゃねえ。誰が来たって、どいつが来たって、坊を渡すこっちゃねえからな」 彼は、子供を確り抱きしめた。そしてとりたての林檎のように張り切った小さな頬に、ハムマーのようにキッスを立て続けにぶっつけた。 ・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・ 顔に袖を当てて泣く吉里を見ている善吉は夢現の界もわからなくなり、茫然として涙はかえッて出なくなッた。「善さん、勘忍して下さいよ。実に済みませんでした」と、吉里はようやく顔を上げて、涙の目に善吉を見つめた。 善吉は吉里からこの語・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・と詠み、鳥啼けば「鳥啼く」と詠み、螽飛べば「螽飛ぶ」と詠む。これ尋常のことのごとくなれど曙覧以外の歌人には全くなきことなり。面白からぬに「面白し」と詠み、香もなきに「香に匂ふ」と詠み、恋しくもなきに「恋にあこがれ」と詠み、見もせぬに遠き名所・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫