・・・私が半分泣声になって叫ぶと、とたんに犬は肝をつぶすような吠え声をあげて、猛然と跳びかかってきた。私は着物に咬みつかれたまま、うしろの菜園のなかに、こんにゃく桶ごとひっくりかえった。「あら奥様、奥様、大変ですよう――」 そのときになっ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・「婆さんが云うには、あの鳴き声はただの鳴き声ではない、何でもこの辺に変があるに相違ないから用心しなくてはいかんと云うのさ。しかし用心をしろと云ったって別段用心の仕様もないから打ち遣って置くから構わないが、うるさいには閉口だ」「そんな・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 泣き声と一緒に、訴えるような声で叫んで、その小さな手は、吉田の頸に喰い込むように力強くからまった。 人生の、あらゆる不幸、あらゆる悲惨に対して殆んど免疫になってはいた吉田であった。不幸や悲惨の前に無力に首をうなだれる吉田ではなかっ・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・と、また泣き声になッて、「え、よござんすか」 西宮は閉目てうつむいている。「よござんすね、よござんすね。本統、本統」と、吉里は幾たびとなく念を押して西宮をうなずかせ、はアッと深く息を吐いて涙を拭きながら、「兄さんでも来て下さらなきゃ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・また第二の方は、さまで面倒もなく損害もなき故、何となく子供の痛みを憐れみ、かつは泣声の喧しきを厭い、これを避けんがために過ちを柱に帰して暫くこれを慰むることならんといえども、父母のすることなすことは、善きも悪しきも皆一々子供の手本となり教え・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・始めは客のある時は客の前を憚かって僅に顔をしかめたり、僅に泣声を出す位な事であったが、後にはそれも我慢が出来なくなって来た。友達の前であろうが、知らぬ人の前であろうが、痛い時には、泣く、喚く、怒る、譫言をいう、人を怒りつける、大声あげてあん・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・と泣きながら叫んで追いかけましたが、男はもう森の横を通ってずうっと向こうの草原を走っていて、そこからネリの泣き声が、かすかにふるえて聞こえるだけでした。 ブドリは、泣いてどなって森のはずれまで追いかけて行きましたが、とうとう疲れてばった・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ 半分眼が醒めかかっても、私は夢に覚えた悲しさを忘れ切れず、うっかりすると、憐れな泣声を立てそうな程、心を圧せられて居た。時間にすれば、五時頃ででもあったろうか。 眠りなおして八時過に起ても、私は何となく頭が重苦しいのを感じた。・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・新たに響く厨子王の泣き声が、ややかすかになった姉の声に交じる。三郎は火を棄てて、初め二人をこの広間へ連れて来たときのように、また二人の手をつかまえる。そして一座を見渡したのち、広い母屋を廻って、二人を三段の階の所まで引き出し、凍った土の上に・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ 農婦は性急な泣き声でそういう中に、早や泣き出した。が、涙も拭かず、往還の中央に突き立っていてから、街の方へすたすたと歩き始めた。「二番が出るぞ。」 猫背の馭者は将棋盤を見詰めたまま農婦にいった。農婦は歩みを停めると、くるりと向・・・ 横光利一 「蠅」
出典:青空文庫