・・・――あれは風の音であろうか――あの日以来の苦しい思が、今夜でやっと尽きるかと思えば、流石に気の緩むような心もちもする。明日の日は、必ず、首のない私の死骸の上に、うすら寒い光を落すだろう。それを見たら、夫は――いや、夫の事は思うまい、夫は私を・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・日頃から物に騒がない本間さんが、流石に愕然としたのはこの時である。が、理性は一度脅されても、このくらいな事でその権威を失墜しはしない。思わず、M・C・Cの手を口からはなした本間さんは、またその煙をゆっくり吸いかえしながら、怪しいと云う眼つき・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・潮風が二人の袂と裾を飜している。流石に、避暑地に来たらしい感もした。 夕飯の時、女は海の方を見て『今日は、波が高い』といったが、日本海の波をみている私には、この高いという波が、あまり静かなのに驚かされていた位であるから、平常の海はどんな・・・ 小川未明 「舞子より須磨へ」
・・・ 流石に、ラッセルは、我が国に来て講演した際に、社会進化の考察を二つの立脚点からすることを忘れなかった。経済制度の改革に、これに伴うに精神進化をもってしたのです。真理に対する憧憬は其の一つです。愛を感じ正義に味方することが、またその一つ・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・談にまぎらして帰って来たが、その晩は少し遅くなったので、淋しい横町から、二人肩と肩と擦れ寄りながら、自分の家の前まで来て内へ入ろうと思った途端、其処に誰も居ないものが、スーウと格子戸が開いた時は、彼も流石に慄然としたそうだが、幸に女房はそれ・・・ 小山内薫 「因果」
・・・色町に近くどこか艶めいていながら流石に裏通りらしくうらぶれているその通りを北へ真っ直ぐ、軒がくずれ掛ったような古い薬局が角にある三ツ寺筋を越え、昼夜銀行の洋館が角にある八幡筋を越え、玉の井湯の赤い暖簾が左手に見える周防町筋を越えて半町行くと・・・ 織田作之助 「世相」
・・・若い女ばかり集まる処だからお秀の性質でもまさかに寝衣同様の衣服は着てゆかれず、二三枚の単物は皆な質物と成っているし、これには殆ど当惑したお富は流石女同志だけ初めから気が付いていた。お秀の当惑の色を見て、「気に障えちゃいけないことよ、あの・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・運の面は何様なつらをして現われて来るものか、と思えば、流石に真暗の中に居りながらも、暗中一ぱいに我が眼が見張られて、自然と我が手が我が左の腰に行った。然し忽ち思返して、運は何様な面をしておれの前に出て来るか知らぬが、おれは斯様な面をして運に・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・けれどもいちど、同じ課に勤務している若い官吏に夢中になり、そうして、やはり捨てられたときには、そのときだけは、流石に、しんからげっそりして、間の悪さもあり、肺が悪くなったと嘘をついて、一週間も寝て、それから頸に繃帯を巻いて、やたらに咳をしな・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・万事が解決してしまったのだと、なぜだかそう信ぜられて、流石にうれしく、紺絣の着物を着たまだはたち前くらいの若いお客さんの手首を、だしぬけに強く掴んで、「飲みましょうよ、ね、飲みましょう。クリスマスですもの」三 ほんの三十・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
出典:青空文庫