・・・その一つ向うのテエブルには、さっき二人と入れちがいにはいって来た、着流しの肥った男と、芸者らしい女とが、これは海老のフライか何かを突ついてでもいるらしい。滑かな上方弁の会話が、纏綿として進行する間に、かちゃかちゃ云うフォオクの音が、しきりな・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・そうして「海老上り」の両足を遠く空ざまに伸しながら、「二――」と再び喚いた時には、もう冬の青空を鮮に切りぬいて、楽々とその上に上っていた。この丹波先生の滑稽なてれ隠しが、自分たち一同を失笑させたのは無理もない。一瞬間声を呑んだ機械体操場の生・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・「もう、二階ばかり上の高い処に、海老屋の屋根の天水桶の雪の遠見ってのがありました。」「聞いても飛上りたいが、お妻さん、動悸が激しくって、動くと嘔きそうだ。下へもおりられないんだよ。恩に被るから、何とか一杯。」「おっしゃるな。すぐ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・「――いり海老のような顔をして、赤目張るの――」「――さてさて憎いやつの――」 相当の役者と見える。声が玄関までよく通って、その間に見物の笑声が、どッと響いた。「さあ、こちらへどうぞ、」「憚り様。」 階子段は広い。―・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・正月飾りに、魚河岸に三個よりなかったという二尺六寸の海老を、緋縅の鎧のごとく、黒松の樽に縅した一騎駈の商売では軍が危い。家の業が立ちにくい。がらりと気を替えて、こうべ肉のすき焼、ばた焼、お望み次第に客を呼んで、抱一上人の夕顔を石燈籠の灯でほ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・頭を曲げ手足を縮め海老のごとき状態に困臥しながら、なお気安く心地爽かに眠り得た。数日来の苦悩は跡形も無く消え去った。ために体内新たな活動力を得たごとくに思われたのである。 実際の状況はと見れば、僅かに人畜の生命を保ち得たのに過ぎないので・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・格好のよい肩に何かしらぬ海老色の襷をかけ、白地の手拭を日よけにかぶった、顋のあたりの美しさ。美しい人の憂えてる顔はかわいそうでたまらないものである。「おとよさんおとよさん」 呼ぶのは嫂お千代だ。おとよは返辞をしない。しないのではない・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・関東煮屋をやると聴いて種吉は、「海老でも烏賊でも天婦羅ならわいに任しとくなはれ」と手伝いの意を申し出でたが、柳吉は、「小鉢物はやりまっけど、天婦羅は出しまへん」と体裁よく断った。種吉は残念だった。お辰は、それみたことかと種吉を嘲った。「私ら・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・せめて様々の料理を取寄せ、食卓を賑かにして、このどうにもならぬ陰鬱の気配を取払い度く思い、「うなぎと、それから海老のおにがら焼と茶碗蒸し、四つずつ、此所で出来なければ、外へ電話を掛けてとって下さい。それから、お酒。」 母はわきで聞い・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ぎょっとして、それから二人こわごわ這い出し、襖をそっとあけてみると、祝い物の島台に飾られてある伊勢海老が、まだ生きていて、大きな髭をゆるくうごかしていたのである。物音の正体を見とどけて、二人は顔を見合せ、それからほのぼの笑った。こんないい思・・・ 太宰治 「花燭」
出典:青空文庫