・・・保吉は未だに食物の色彩――からすみだの焼海苔だの酢蠣だの辣薑だのの色彩を愛している。もっとも当時愛したのはそれほど品の好い色彩ではない。むしろ悪どい刺戟に富んだ、生なましい色彩ばかりである。彼はその晩も膳の前に、一掴みの海髪を枕にしためじの・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ごまのふってあるのや、中から梅干しの出てくるのや、海苔でそとを包んであるのや……こんなおいしい御飯を食べたことはないと思うほどだった。 火はどろぼうがつけたのらしいということがわかった。井戸のつるべなわが切ってあって水をくむことができな・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・親仁はうしろへ伸上って、そのまま出ようとする海苔粗朶の垣根の許に、一本二本咲きおくれた嫁菜の花、葦も枯れたにこはあわれと、じっと見る時、菊枝は声を上げてわっと泣いた。「妙法蓮華経如来寿量品第十六自我得仏来所経諸劫数無量百千万億載阿僧・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ まず海苔が出て、お君がちょっと酌をして立った跡で、ちびりちびり飲んでいると二、三品は揃って、そこへお貞が相手に出て来た。「お独りではお寂しかろ、婆々アでもお相手致しましょう」「結構です、まア一杯」と、僕は盃をさした。 婆さ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「海苔一ふくろ送り給ひ畢んぬ。……峰に上りてわかめや生ひたると見候へば、さにてはなくて蕨のみ並び立ちたり。谷に下りて、あまのりや生ひたると尋ぬれば、あやまりてや見るらん、芹のみ茂りふしたり。古郷の事、はるかに思ひ忘れて候ひつるに、今此の・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・そうだ、海苔茶漬にしよう。粋なものなんだ。海苔を出してくれ。」最も簡略のおかずのつもりで海苔を所望したのだが、しくじった。「無いのよ。」家の者は、間の悪そうな顔をしている。「このごろ海苔は、どこの店にも無いのです。へんですねえ。私は買物・・・ 太宰治 「新郎」
・・・「おとろえや歯に食いあてし海苔の砂」などという句でも若いころにはさっぱり興味がなくてむしろいやみを感じたくらいであったのが、自分でだんだん年を取ってみるとやはりそのむしろ科学的な真実性に引きつけられ深く心を動かされるようである。明治の昔ホト・・・ 寺田寅彦 「思い出草」
・・・ 焼海苔に銚子を運んだ後、おかみさんはお寒いじゃ御在ませんかと親し気な調子で、置火燵を持出してくれた。親切で、いや味がなく、機転のきいている、こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想し・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・この響き、この群集の中に二年住んでいたら吾が神経の繊維もついには鍋の中の麩海苔のごとくべとべとになるだろうとマクス・ノルダウの退化論を今さらのごとく大真理と思う折さえあった。 しかも余は他の日本人のごとく紹介状を持って世話になりに行く宛・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ セコンドメイトは、私が頭を抱えて濡れた海苔見たいに、橋板にへばりついているのを見て、「いくらか心配になって」覗き込みに来るだろう。「どうしたんだ、オイ、しっかりしろよ。ほんとに歩けないのかい」と、私の顔を覗き込みに来るだろう。そして、・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
出典:青空文庫