・・・するとかれこれ半時ばかり経って、深山の夜気が肌寒く薄い着物に透り出した頃、突然空中に声があって、「そこにいるのは何者だ」と、叱りつけるではありませんか。 しかし杜子春は仙人の教通り、何とも返事をしずにいました。 ところが又暫くす・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・ 静寂、深山に似たる時、這う子が火のつくように、山伏の裙を取って泣出した。 トウン――と、足拍子を踏むと、膝を敷き、落した肩を左から片膚脱いだ、淡紅の薄い肌襦袢に膚が透く。眉をひらき、瞳を澄まして、向直って、「幹次郎さん。」・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ と言う……葉ながら散った、山葡萄と山茱萸の夜露が化けた風情にも、深山の状が思わるる。「いつでも俺は、気の向いた時、勝手にふらりと実家へ行くだが、今度は山から迎いが来たよ。祭礼に就いてだ。この間、宵に大雨のどッとと降った夜さり、あの・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・が、そうすると、深山の小駅ですから、旅舎にも食料にも、乗客に対する設備が不足で、危険であるからとの事でありました。 元来――帰途にこの線をたよって東海道へ大廻りをしようとしたのは、……実は途中で決心が出来たら、武生へ降りて許されない事な・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・……この、深山幽谷のことは、人間の智慧には及びません――」 女中も俯向いて暗い顔した。 境は、この場合誰もしよう、乗り出しながら、「何か、この辺に変わったことでも。」「……別にその、と云ってございません。しかし、流れに瀬がご・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・日光の射さない、湿っぽい木蔭に、霧にぬれている姿は、道ばたの石の間から、伸び出て咲いている雪のような梅鉢草の花と共に、何となく深山の情趣を漂わせます。もとより、これを味うには、あまりに稀品とすべきでありましょう。・・・ 小川未明 「果物の幻想」
・・・沖はよく和ぎて漣の皺もなく島山の黒き影に囲まれてその寂なるは深山の湖水かとも思わるるばかり、足もとまで月影澄み遠浅の砂白く水底に光れり。磯高く曳き上げし舟の中にお絹お常は浴衣を脱ぎすてて心地よげに水を踏み、ほんに砂粒まで数えらるるようなと、・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ 二人の旅客 雪深き深山の人気とだえし路を旅客一人ゆきぬ。雪いよいよ深く、路ますます危うく、寒気堪え難くなりてついに倒れぬ。その時、また一人の旅人来たりあわし、このさまを見て驚き、たすけ起こして薬などあたえしかば・・・ 国木田独歩 「詩想」
・・・彼は雷電のごとくに馳駆し、風雨のごとくに敵を吹きまくり、あるいは瀑布のごとくはげしく衝撃するかと思えば、また霊鷲のように孤独に深山にかくれるのである。熱烈と孤高と純直と、そして大衆への哭くが如きの愛とを持った、日本におけるまれに見る超人的性・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ ドタ靴の鉄ビョウが、凍てついた大地に、カチ/\と鳴った。 深山軍曹に引率された七人の兵士が、部落から曠野へ、軍装を整えて踏み出した。それは偵察隊だった。前哨線へ出かけて行くのだ。浜田も、大西も、その中にまじっていた。彼等は、本隊か・・・ 黒島伝治 「前哨」
出典:青空文庫