・・・――いささか気障ですが、うれしい悲しいを通り越した、辛い涙、渋い涙、鉛の涙、男女の思迫った、そんな味は覚えがない、ひもじい時の、芋の涙、豆の涙、餡ぱんの涙、金鍔の涙。ここで甘い涙と申しますのは。――結膜炎だか、のぼせ目だか、何しろ弱り目に祟・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ と例の渋い顔で、横手の柱に掛ったボンボン時計を睨むようにじろり。ト十一時……ちょうど半。――小使の心持では、時間がもうちっと経っていそうに思ったので、止まってはおらぬか、とさて瞻めたもので。――風に紛れて針の音が全く聞えぬ。 そう・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・丁度同じ頃、その頃流行った黒無地のセルに三紋を平縫いにした単羽織を能く着ていたので、「大分渋いものを拵えたネ、」と褒めると、「この位なものは知ってるサ、」と頗る得々としていた。四 俗曲趣味 二葉亭は江戸ッ子肌であった。あの厳・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・そして無意識に唇を動かして、何か渋いものを味わったように頬をすぼめた。しかしこの場を立ち上がって、あの倒れている女学生の所へ行って見るとか、それを介抱して遣るとかいう事は、どうしてもして遣りたくない。女房はこの出来事に体を縛り付けられて、手・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・と銭占屋は渋い顔をして、「さ、お前にも五十銭遺いてくよ。もっとじつは遣りてえんだが、今言うとおり商売がねえんだから、これで勘弁してくんな。」 私も傍で聞いていて諢うのだと思った。女房も始めは笑談にしていたが、銭占屋はどこまでも本気で・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・男は色の黒い苦み走った、骨組の岩畳な二十七八の若者で、花色裏の盲縞の着物に、同じ盲縞の羽織の襟を洩れて、印譜散らしの渋い緞子の裏、一本筋の幅の詰まった紺博多の帯に鉄鎖を絡ませて、胡座を掻いた虚脛の溢み出るのを気にしては、着物の裾でくるみくる・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 三七日の夜、親族会議が開かれた席上、四国の田舎から来た軽部の父が、お君の身の振り方につき、お君の籍は金助のところへ戻し、豹一も金助の養子にしてもろたらどんなもんじゃけんと、渋い顔して意見を述べ、お君の意嚮を訊くと、「私でっか。私は・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ そうして集まった金が一万八千円ばかり、これで資金も十分出来たと、丹造は思わずにやりとしたが、すぐ渋い顔になると、「――まだちょっと足りぬ」 気味のわるい声で呟いた。「……いっそのこと、保証金を八百円にすればよかった」 ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ほどの迫力はないが、吉田栄三の芸を想わせる渋い筆致と、自然主義特有の「あるがまま」の人生観照が秋声ごのみの人生を何の誇張もなく「縮図」している見事さは、市井事もの作家の武田麟太郎氏が私淑したのも無理はないと思われるくらいで、僕もまたこのよう・・・ 織田作之助 「文学的饒舌」
・・・ 五十吉は翌日また渋い顔をしてやってくると風呂敷包みを受け取るなり、見たな。登勢の顔をにらんだので、驚いて見なかった旨ありていに言うと、五十吉はいや見たといってきかず、二、三度押し問答の末、見たか見ぬか、開けてみりゃ判ると、五十吉が風呂・・・ 織田作之助 「螢」
出典:青空文庫