・・・ 私は秋の日など、寺の本堂から、ひろびろとした野を見渡した。黄いろく色ついた稲、それにさし通った明るい夕日、どこか遠くを通って行く車の音、榛の木のまばらな影、それを見ると、そこに小林君がいて、そして私と同じようにしてやはり、その野の夕日・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・ホテルを出ようとすると、金モオルの附いた帽子を被っている門番が、帽を脱いで、おれにうやうやしく小さい包みを渡した。「なんだい」とおれは問うた。「昨日侯爵のお落しになった襟でございます。」こいつまでおれの事を侯爵だと云っている。 ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ 園内の渓谷に渡した釣り橋を渡って行くとき向こうから来た浴衣姿の青年の片手にさげていたのも、どうもやはり「千曲川のスケッチ」らしい。絵日傘をさした田舎くさいドイツ人夫婦が恐ろしくおおぜいの子供をつれて谷を見おろしていた。 動物園があ・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・辰之助は緊張した表情でそう言って、電報を道太に渡した。 道太はまたかと思って、胸がにわかに騒いだ。 電文は三音信ばかりあった。「リツコジウビヨウビヨウメイミテイダイガクヘニウインシタアトフミ」そういう文言であった。 道太はひどく・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・手の長い猿共が山から山へ、森から森へ遊びあるいて、ある豁川にくると、何十匹の猿が手をつないで樹の枝からブラ下り、だんだん大きく揺れながら、むこうの崖にとびついて、それから他の猿どもを順々に渡してやるという話である。林はそれをもう本もみないで・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ 鳥打帽に双子縞の尻端折、下には長い毛糸の靴足袋に編上げ靴を穿いた自転車屋の手代とでもいいそうな男が、一円紙幣二枚を車掌に渡した。車掌は受取ったなり向うを見て、狼狽てて出て行き数寄屋橋へ停車の先触れをする。尾張町まで来ても回数券を持って・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・シャロットの入口に渡したる石橋に、蹄も砕けよと乗り懸けしと思えば、馬は何物にか躓きて前足を折る。騎るわれは鬣をさかに扱いて前にのめる。戞と打つは石の上と心得しに、われより先に斃れたる人の鎧の袖なり」「あぶない!」と老人は眼の前の事の如く・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・私は音のしないようにソーッと歩いて、扉の所に立っていた蛞蝓へ、一円渡した。渡す時に私は蛞蝓の萎びた手を力一杯握りしめた。 そして表へ出た。階段の第一段を下るとき、溜っていた涙が私の眼から、ポトリとこぼれた。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・五時間目には菊池先生がうちへ宛てた手紙を渡して、またいろいろ話された。武田先生と菊池先生がついて行かれるのだそうだ。行く人が二十八人にならなければやめるそうだ。それは県の規則が全級の三分の一以上参加するようになってるからだそうだ。けれど・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ すっと教室へ入って来て、生徒の一人である乾物屋の娘に何か書いたものを渡した。こちらからその光景を眺め、受持の先生も、家へかえれば主婦なのだからそのかんで、ハハア玉子のことでもたのんでいるな、と察した。乾物屋の娘はもとその先生に習った子・・・ 宮本百合子 「「うどんくい」」
出典:青空文庫