・・・ホンコンやカルカッタ辺の支邦人街と同じ空気が此処にも溢れていた。一体に、それは住居だか倉庫だか分らないような建て方であった。二人は幾つかの角を曲った挙句、十字路から一軒置いて――この一軒も人が住んでるんだか住んでいないんだか分らない家――の・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・それで、其兵士の顔には、他の人への羞しい様な色が溢れて、妹さんを見据えてお居での眼は、何様に迷惑そうに見られたでしょう。『もう可いから、彼方へ御行で……お前の云った事は、既う充分解ってる。其処を退いたら可いだろう。邪魔だよ、何時までも一・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・即ち我が精神を自信自重の高処に進めたるものにして、精神一度び定まるときは、その働きはただ人倫の区域のみに止まらず、発しては社会交際の運動となり、言語応対の風采となり、浩然の気外に溢れて、身外の万物恐るるに足るものなし。談笑洒落・進退自由にし・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・譬えば夢を見る人が、夢の感じの溢れたために、眼の覚めるのと同じように、この生活の夢の感じの力で、己は死に目覚めるのか。(息絶えて死の足許死。(首を振りつつ徐思えば人というものは、不思議なものじゃ。解すべからざるものをも解し、文に書かれぬ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・春風馬堤曲に溢れたる詩思の富贍にして情緒の纏綿せるを見るに、十七字中に屈すべき文学者にはあらざりしなり。彼はその余勢をもって絵事を試みしかども大成するに至らざりき。もし彼をして力を俳画に伸ばさしめば日本画の上に一生面を開き得たるべく、応挙輩・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・見るとそこはきれいな泉になっていて粘板岩の裂け目から水があくまで溢れていた。(一寸おたずねいたしますが、この辺に宿屋 浴衣を着た髪の白い老人であった。その着こなしも風采も恩給でもとっている古い役人という風だった。蕗を泉に浸していたの・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・の範囲から溢れた調子をもっているからというばかりではない。この種の問題が、ここで扱われているような場合に――食糧問題は、台所やりくりではなくて、男も女もひっくるめた全人民の生存のための問題であり、女子労働の悪条件と悲劇的な女子失業の現象は、・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・顔も觀骨が稍出張っているのが疵であるが、眉や目の間に才気が溢れて見える。伊織は武芸が出来、学問の嗜もあって、色の白い美男である。只この人には肝癪持と云う病があるだけである。さて二人が夫婦になったところが、るんはひどく夫を好いて、手に据えるよ・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・それに反してあの写真の男の額からは、才気が毫光のさすように溢れて出ているでしょう。どうしてもわたくしのどこをあなたが好いて下さるか分からなかったのです。そこでわたくしは必死になってあの写真と競争してみる気になったのです。 女。それも分か・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・栗毛の馬の平原は狂人を載せてうねりながら、黒い地平線を造って、潮のように没落へと溢れていった。 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫