・・・国の方で留守居するおげんが朝夕の友と言えば、旦那の置いて行った机、旦那の置いて行った部屋、旦那のことを思い二人の子のことを思えば濡れない晩はなかったような冷たい閨の枕―― 回想は又、広い台所の炉辺の方へもおげんの心を連れて行って見せた。・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・先生のような清潔好きな人が、よくこのむさくるしい炉辺に坐って平気で煙草が喫めると思われる程だ。 高瀬の来たことを聞いて、逢いに来た町の青年もあった。どうしてこんな田舎へ来てくれたかなどと、挨拶も如才ない。今度の奥さんはミッション・スクウ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・謂わんや、ふるさとの人々の炉辺では、辻馬の家の末弟は、東京でいい恥さらしをしているそうだのう、とただそれだけ、話題に上って、ふっと消え、火を掻き起してお茶を入れかえ、秋祭りの仕度に就いて話題が移ってゆく、という、そんな状態ではないかと思う。・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・ 親が無くても子は育つ、という。私の場合、親が有るから子は育たぬのだ。親が、子供の貯金をさえ使い果している始末なのだ。 炉辺の幸福。どうして私には、それが出来ないのだろう。とても、いたたまらない気がするのである。炉辺が、こわくてなら・・・ 太宰治 「父」
・・・冬ならば、炉辺に坐って燃えあがる焚火の焔を眺めていた。なぞなぞが好きであった。或る冬の夜、太郎は炉辺に行儀わるく寝そべりながら、かたわらの惣助の顔を薄目つかって見あげ、ゆっくりした口調でなぞなぞを掛けた。水のなかにはいっても濡れないものはな・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・冬の或日の夜、デカルトは炉辺に坐して考え始めた。彼は歴史的現実的自己として、歴史的現実において考え始めたのである。彼は疑い疑った。自己の存在までも疑った。しかし彼の懐疑の刃は論理そのものにまで向わなかった。真の自己否定的自覚に達しなかった。・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・ 勘助は、そういったきりだ。炉辺に坐りこみ、わが家にいるように、乱胸を片づけ出した。勇吉は、立ちはだかって、勘助を見ていたがやがて、「何でえ、何しくさるでえ」とつめよせて来た。「畜生! うせあがれ! われの家われと焼くが何で・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・きのう雪が降ったのが今日は燦らかに晴れているから、幅広い日光と一緒に、潮の香が炉辺まで来そうだ。光りを背に受けて、露台の籐椅子にくつろいだ装で母がいる。彼女は不機嫌であった。いつも来る毎に水がうまく出ないから腹を立てるのであった。「――・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・軽い夕飯を食っているのはグリーン色の縞のスカートに膝出したハイランダアである。炉辺にかけて、右手でパン切をかじり、片手の壺は牛乳か麦酒か。炉の前にフイゴが放り出されていて、床は不規則なごろた石をうずめてある。一つ一つ色ちがいなその石の面を飛・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・「常盤樹」に来て、非常に直線的な格調をもちはじめた。用語も、和文脈から漢詩の様式を思い浮ばせる形式に推移して来る。「常盤樹」にしろさらに「鼠をあわれむ」「炉辺雑興」「労働雑詠」等に到って、この詩人が、小諸の農村生活の日常に結びつくことで、こ・・・ 宮本百合子 「藤村の文学にうつる自然」
出典:青空文庫