・・・激情の果の、無表情。あの、微笑の、能面になりましょう。この世の中で、その発言に権威を持つためには、まず、つつましい一般市井人の家を営み、その日常生活の形式に於いて、無慾。人から、うしろ指一本さされない態の、意志に拠るチャッカリ性。あたりまえ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ 激情の極には、人は、どんな表情をするでしょう。無表情。私は微笑の能面になりました。いいえ、残忍のみみずくになりました。こわいことなんかない。私も、やっと世の中を知った、というだけのことなのです。「晩年」お読みになりますか? 美しさ・・・ 太宰治 「「晩年」に就いて」
・・・ちらと少女のほうを見ると、少女は落ちついて、以前のとおりに、ふたりの老夫婦のあいだにひっそりしゃがんで、ひたと守られ、顔を仰向にして全然の無表情であった。ちっとも私を問題にしていない。私は、あきらめた。ふたたび指輪の老爺に話掛けられぬうちに・・・ 太宰治 「美少女」
・・・気品高い、無表情の女であった。養子をむかえた。女学校の図画の先生であった。峠を越えて八里はなれた隣りのまちの、造り酒屋の次男であった。からだも、心も、弱い人であった。高野の家には、土地が少しあった。女学校の先生をやめても、生活が、できた。犬・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・――ねむり薬の精緻なる秤器。無表情の看護婦があらあらしく秤器をうごかす。」 始発の電車。 夜が明け、明け放れていっても、私には起きあがることができないのだ。このように、工合のわるい朝には、家人に言いつけて、コップにすこし、お酒を持っ・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・そうして端役に出る無表情でばかのような三人の門付け娘が非常に重大な「さびしおり」の効果をあげているようである。 男役のほうはどうもみんな芝居臭さが過ぎて「俳諧」をこわしているような気がする。どうして、もう少し自然に物事ができないものかと・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・て広大なるこの別天地の幽邃なる光線と暗然たる色彩と冷静なる空気とに何か知ら心の奥深く、騒しい他の場所には決して味われぬ或る感情を誘い出される時、この霊廟の来歴を説明する僧侶のあたかも読経するような低い無表情の声を聞け。――昔は十万石以上の大・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・四角い顔の半面が攣れていたようなのは消え、赤味も減り、蒼白く無表情に索漠とした顔つきである。肩つきまで下った。カサのない電燈の黄色っぽい光がその顔を正面から照りつけている。冷たい茶を啜り、自分はなお弁当をたべつづけた。―― ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・魂を激しい愛――愛と云うものを理解した愛――でインスパイアしてくれるどころか、只怠いくつな寄生虫となって、無表情の顔を永遠の墓場まで並べて行かなければならない――。 其は、女性である私が考えてもぞっとする事でございます。人間として、悲し・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・顔だちとしては、一人一人が別の自分の顔立ちをもってはいるけれども、奇妙な無表情の鈍重さが、どの顔にも瀰漫している。医大の制帽の下の眉の濃い顔の上にも。無帽で、マントをきた瘠せた青年の顔の上にも。しかも、その顔々は、図書館の広間に集り、街頭に・・・ 宮本百合子 「図書館」
出典:青空文庫