・・・君がそんな無謀な事をしたら、あの人はどうするんだ。」――二人がこう揉み合っている間に、新蔵は優しい二つの腕が、わなわな震えながらも力強く、首のまわりに懸ったのを感じました。それから涙に溢れた涼しい眼が、限りなく悲しい光を湛えて、じっと彼の顔・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・迷い鳥にしてはあまりに無謀過ぎ、あまりに重みがあり過ぎたようだ。 ぎょッとしたが、僕はすぐおもて窓をあけ、「………」誰れだ? と、いつものような大きな声を出そうとしたら、下の方から、「静かに静かに」と、声ではなく、ただ制する手ぶ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・かえってこういう空想を直ちに実現しようと猛進する革命党や無政府党の無謀無考慮無経綸を馬鹿にし切っていた。露都へ行く前から露国の内政や社会の状勢については絶えず相応に研究して露国の暗流に良く通じていたが、露西亜の官民の断えざる衝突に対して当該・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・例えば先祖から持ち伝えた山を拓いて新らしい果樹園を造ろうとしたようなもので、その策は必ずしも無謀浅慮ではなかったが、ただ短兵急に功を急いで一時に根こそぎ老木を伐採したために不測の洪水を汎濫し、八方からの非難攻撃に包囲されて竟にアタラ九仭の功・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・しかし人間の無謀と怠慢とになりし沙漠はこれを恢復するにもっとも難いものであります。しかしてユトランドの荒地はこの種の荒地であったのであります。今より八百年前の昔にはそこに繁茂せる良き林がありました。しかして降って今より二百年前まではところど・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・「私たちは、ここへ飛んできたことが、無謀であった。」と、Sがんがいいました。「いや、けっしてそうでない。この湖水を見いだしただけでもこの旅はむだではなかった。あのすばらしい四辺の山々を見るがいい。」と、元気な、Kがんが、いいました。・・・ 小川未明 「がん」
・・・むろん誰が考えても無謀な考えにちがいないが、あの人はしばらくその無謀さに気がつかない。なんとかなるだろうと、ふらふらと暖簾をくぐり、そして簡単に恥をかかされて、外に出ると、大学の時計台が見え、もう約束の二時間は経っているのだった。いつものこ・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・ 彼等の銃剣は、知らず知らず、彼等をシベリアへよこした者の手先になって、彼等を無謀に酷使した近松少佐の胸に向って、奔放に惨酷に集中して行った。 雪の曠野は、大洋のようにはてしなかった。 山が雪に包まれて遠くに存在している。しかし・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・この前提が実用上無謀ならざる事は数回同じ実験を繰返す時は自ずから明らかなるべきも、とにかくここに予言者と被予言者との期待に一種の齟齬あるを認め得べし。 次には近似の意義に関する意見の齟齬が問題となる。学者が第一次近似をもって甘んずる時、・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・日本の国是はつまり開戦説で、とうとうあの露西亜と戦をして勝ちましたが、あの戦を開いたのはけっして無謀にやったのではありますまい。必ず相当の論拠があり、研究もあって、露西亜の兵隊が何万満洲へ繰出すうちには、日本ではこれだけ繰出せるとか、あるい・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
出典:青空文庫