・・・この眼の奥に閃いているのは、無邪気な童女の心ばかりではない。「流人となれるえわの子供」、あらゆる人間の心である。「お父様! いんへるのへ参りましょう。お母様も、わたしも、あちらのお父様やお母様も、――みんな悪魔にさらわれましょう。」・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・ お蓮は犬を板の間へ下すと、無邪気な笑顔を見せながら、もう肴でも探してやる気か、台所の戸棚に手をかけていた。 その翌日から妾宅には、赤い頸環に飾られた犬が、畳の上にいるようになった。 綺麗好きな婆さんは、勿論この変化を悦ばなかっ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・彼れはその珍らしい無邪気な微笑をほほえんでいた。一同は彼れのにこやかな顔を見ると、吸い寄せられるようになって、いう事をきかないではいられなかった。蓆が持ち出された。四人は車座になった。一人は気軽く若い者の机の上から湯呑茶碗を持って来た。もう・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・クララを姉とも親とも慕う無邪気な、素直な、天使のように浄らかなアグネス。クララがこの二、三日ややともすると眼に涙をためているのを見て、自分も一緒に涙ぐんでいたアグネス。……そのアグネスの睫毛はいつでも涙で洗ったように美しかった。殊に色白なそ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 予はそのあまりの無邪気さに、覚えず森寒を禁じ得ざりき。おそらく今日の切開術は、眼を開きてこれを見るものあらじとぞ思えるをや。 看護婦はまた謂えり。「それは夫人、いくらなんでもちっとはお痛みあそばしましょうから、爪をお取りあそば・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・お蔦 (無邪気に莞爾々々いいもの、……でも、お前さんには気に入らないもの、それでも、気に入らせないじゃおかないもの、嬉しいもの、憎いもの、ちょっと極りの悪いもの。早瀬 何だよ、何だよ。お蔦 ああ、悪かった。……坊やはお土産を待っ・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・月待草に朝露しとど湿った、浜の芝原を無邪気な子どもを相手に遊んでおれば、人生のことも思う機会がない。 あってみない前の思いほどでなく、お光さんもただ懇切な身内の人で予も平気なればお光さんも平気であったに、ただ一日お光さんは夫の許しを得て・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・省作にからかわれるのがどうやらうれしいようにも見えるけれど、さあ仕事となれば一生懸命に省作を負かそうとするなどははなはだ無邪気でよい。 清さんと清さんのお袋といっしょにおとよさんは少しあとになってくる。おとよさんは決して清さんといっしょ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・正ちゃんは無邪気なもので、「どうせ習らっても、馬鹿だから、分るもんか?」「なぜ?」「こないだも大ざらいがあって、義太夫を語ったら、熊谷の次郎直実というのを熊谷の太郎と言うて笑われたんだ――あ、あれがうちの芸著です、寝坊の親玉」・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ところが社員は恐る恐る刺を通じて早速部屋に通され、粛々如として恭やしく控えてると、やがてチョコチョコと現われたは少くも口髯ぐらい生やしてる相当年配の紳士と思いの外なる極めて無邪気な紅顔の美少年で、「私が森です」と挨拶された時は読売記者は呆気・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
出典:青空文庫