・・・折しも松の風を払って、妙なる琴の音は二階の一間に起りぬ。新たに来たる離座敷の客は耳を傾けつ。 糸につれて唄い出す声は、岩間に咽ぶ水を抑えて、巧みに流す生田の一節、客はまたさらに心を動かしてか、煙草をよそに思わずそなたを見上げぬ。障子は隔・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・裏の畑に向いた六畳の間に、樋口とこの家の主人の後家の四十七八になる人とが、さし向かいで何か話をしているところでした。この後家の事を、私どもはみなおッ母さんとよんでいました。 おッ母さんはすこぶるむずかしい顔をして樋口の顔を見ています、樋・・・ 国木田独歩 「あの時分」
一人の男と一人の女とが夫婦になるということは、人間という、文化があり、精神があり、その上に霊を持った生きものの一つの習わしであるから、それは二つの方面から見ねばならぬのではあるまいか。 すなわち一つは宇宙の生命の法則の・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・彼は、局長の言葉が耳に入らなかった振りをして、そこに集っている者達に栗島という看護卒が平生からはっきりしない点があることを高い声で話した。間もなく通りから、騒ぎを聞きつけて人々がどや/\這入って来た。 郵便局の騒ぎはすぐ病院へ伝わった。・・・ 黒島伝治 「穴」
ガラーリ 格子の開く音がした。茶の間に居た細君は、誰かしらんと思ったらしく、つと立上って物の隙からちょっと窺ったが、それがいつも今頃帰るはずの夫だったと解ると、すぐとそのままに出て、「お帰りなさいまし。」と、ぞ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ これ私の性の獰猛なるに由る乎、癡愚なるに由る乎、自分には解らぬが、併し今の私に人間の生死、殊に死刑に就ては、粗ぼ左の如き考えを有って居る。 二 万物は皆な流れ去るとヘラクリタスも言った、諸行は無常、宇宙は変化の・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ 何べんも間誤つき、何べんも調らべられ、ようやくのことで裁判所から許可証を貰い、刑務所へやってきた。――ところが、その入口で母親が急に道端にしゃがんで、顔を覆ってしまった。妹は吃驚した。何べんもゆすったが、母親はそのまゝにしていた。・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・かかすべからずと強いられてやっと受ける手頭のわけもなく顫え半ば吸物椀の上へ篠を束ねて降る驟雨酌する女がオヤ失礼と軽く出るに俊雄はただもじもじと箸も取らずお銚子の代り目と出て行く後影を見澄まし洗濯はこの間と怪しげなる薄鼠色の栗のきんとんを一ツ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・日頃懇意な植木屋が呉れた根も浅い鉢植の七草は、これもとっくに死んで行った仲間だ。この旱天を凌いで、とにもかくにも生きつづけて来た一二の秋草の姿がわたしの眼にある。多くの山家育ちの人達と同じように、わたしも草木なしにはいられない方だから、これ・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・また過去の私が経歴と言っても、十一二歳のころからすでに父母の手を離れて、専門教育に入るまでの間、すべてみずから世波と闘わざるを得ない境遇にいて、それから学窓の三四年が思いきった貧書生、学窓を出てからが生活難と世路難という順序であるから、切に・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
出典:青空文庫