・・・不意を喰って倒れんばかりによろけた佐藤は、跡も見ずに耳を押えながら、猛獣の遠吠を聞いた兎のように、前に行く二、三人の方に一目散にかけ出してその人々を楯に取った。「汝ゃ乞食か盗賊か畜生か。よくも汝が餓鬼どもさ教唆けて他人の畑こと踏み荒した・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・我が勇しき船頭は、波打際の崖をたよりに、お浪という、その美しき恋女房と、愛らしき乳児を残して、日ごとに、件の門の前なる細路へ、衝とその後姿、相対える猛獣の間に突立つよと見れば、直ちに海原に潜るよう、砂山を下りて浜に出て、たちまち荒海を漕ぎ分・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・……彼奴猛獣だからね。」「何ともしゃあしましねえ。こちとら馴染だで。」 けれども、胸が細くなった。轅棒で、あの大い巻斑のある角を分けたのであるから。「やあ、汝、……小僧も達しゃがな。あい、御免。」 敢て獣の臭さえもしないで、・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・たしかに、猛獣に襲われるより怖しいことだったにちがいない。この、少しの反抗力をも有しない彼等に対してすら、その執拗と根気に怖れをなしているので、考えただけで、身震いがしました。 こういうと、自分の行為に矛盾した話であるが、しばらく、・・・ 小川未明 「近頃感じたこと」
・・・そして、あたりに、猛獣のけはいはしないかと、ようすをさぐったのでした。 そのうちに、目の前に、大きな足跡を見つけました。「あ、くまの足跡だ!」と、猟師は思わずさけびました。 これこそ、天が与えてくださったのだ。はやく打ちとめて家・・・ 小川未明 「猟師と薬屋の話」
・・・ 豚は呻き騒ぎながら、彼等が追いかえそうと努めているのとは反対に、小屋から遠い野良の方へ猛獣の行軍のようになだれよった。 と、向うの麦畑に近い方でも誰れかが棒を振って、寄せて来る豚を追いかえしていた。「叱ッ、これゃ! 麦を荒らし・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・凡人の腕で、猛獣を馴らすように、馴らされた秘密の力がある。扣鈕を掛けたジャケツの下で、男等の筋肉が、見る見る為事の恋しさに張って来る、顫えて来る。目は今までよりも広くかれて輝いている。「ええ。あの仲間へ這入ってこの腕を上げ下げして、こちとら・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・諸君、犬は猛獣である。馬を斃し、たまさかには獅子と戦ってさえこれを征服するとかいうではないか。さもありなんと私はひとり淋しく首肯しているのだ。あの犬の、鋭い牙を見るがよい。ただものではない。いまは、あのように街路で無心のふうを装い、とるに足・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・それに、その容貌が前にも言ったとおり、このうえもなく蛮カラなので、いよいよそれが好いコントラストをなして、あの顔で、どうしてああだろう、打ち見たところは、いかな猛獣とでも闘うというような風采と体格とを持っているのに……。これも造化の戯れの一・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・貧苦に沈んだ暗い声ではなくて勢いのある猛獣の吼声のようである。いつも恐ろしく真面目な顔をして煙草をふかしながら沖の方を見ている。怒っているのかと始めは思ったがそうではないらしい。いつ見ても変らぬ、これが熊さんの顔なのであろう。 始めはこ・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫